『スイス観光業の近現代―大衆化をめぐる葛藤』 【大学出版へのいざない4】森本慶太(関西大学文学部准教授) |
スイスという国に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。こう尋ねると、登山電車、牛、チーズ、マッターホルン、それに「ハイジ」など、アルプスの山々に関わる要素を挙げる人が少なくありません。そこはスイスに行けば訪れるべき場所であり、しばしば観光と結びつけて語られます。世界経済フォーラムの「旅行・観光競争力ランキング」でもしばしば上位にランクインしているように、たしかにスイスは「観光大国」の顔をもっています。
しかし、「観光大国」の知名度からは意外なことですが、19世紀に花開くスイス観光の歴史を扱った研究は国内外ともに少ないのが現状です。そもそも国内のスイス史研究では、高校世界史でも言及される宗教改革など、中近世史研究でこそ一定の蓄積がありますが、19世紀以降の近現代史研究は依然としてわずかです。さらに、一般的なイメージとは異なり、スイス経済史で存在感が大きかったのは工業であり、観光業の位置づけが相対的に低かったことから、スイス本国ですら観光の歴史は主たる研究対象とはみなされてきませんでした。 天邪鬼かつ競争嫌いの私には、「スイス」と「観光」という歴史研究で未開拓の領域が魅力的に映りました。しかし、未開拓ということは、入口となる先行研究を収集する段階から手がかりが乏しく、助け合える仲間もいないということです。スイスに留学した時は、観光地めぐりもほどほどに(!)、図書館や文書館にこもってひたすら研究の糸口を探し求める日々が続きました。テーマの選択を後悔したことも一度や二度ではありません。 今回上梓した本書は、このように暗中模索しつつ進めてきた研究をまとめたものです。現在ではおなじみの、アルプス観光を中心とするスイス観光業の姿が確立するのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのことです。この時代に鉄道や宿泊施設をはじめとするインフラが充実し、保養やレジャーでスイスを訪れる外国人観光客は急速に増加しました。本書のタイトルを一見して、こうした観光地発展の秘密を解明する本かと期待されるかもしれません。しかし、本書のテーマはアルプスや登山鉄道ではありません。それは、黄金期が終わり、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての激動の時代に、客数減少という危機に立ち向かった業界人による取り組みです。この主題の選択にも、私の天邪鬼ぶりが発揮されているといえるでしょう。 もちろん、単なる天邪鬼でこうしたテーマを選んだわけではありません。危機のなかにこそ、次の時代につながる新しい要素が顔を出すと思ったからです。第一次世界大戦後のスイスでは、国家間の競争の激化や社会状況の変化にともない、戦前のように外国人富裕層の旅行様式を前提とする高水準の観光の維持が限界に達していました。そのことに気づいた観光業界は業界団体を組織化し、新たな方向性を模索していきました。本書でとくに注目したのは、副題にもある大衆化への対応です。研究の過程で、1930年代から40年代前半にかけての観光業界には、観光の大衆化と客層の差別化をめぐるせめぎあいの渦中にあったことがみえてきました。そこからは、「安価なスイス」と銘打って、大衆化を全面的に打ち出した旅行団体や、同時代のナショナリズムの高まりも反映して、スイス国民に向けて国内旅行の普及を促進する旅行資金補助事業が出現しました。 本書では以上の事例研究を踏まえ、第二次世界大戦後に本格化するマス・ツーリズムとの連続性を意識しつつ、20世紀前半のスイス観光業の模索のなかに、近代から現代へと向かう観光の過渡的状況がみえてくるという展望を示しました。「アフター・コロナ」の観光像が模索されている現在、スイス観光業の近現代史が何らかのヒントを与えることができれば幸いです。 ![]() 書名:『スイス観光業の近現代―大衆化をめぐる葛藤』 著者名:森本 慶太 出版社名:関西大学出版部 判型/製本形式/ページ数:A5判/上製/184頁 税込価格:3,080円 ISBNコード:978-4-87354-758-9 Cコード:C3022 https://www.kansai-u.ac.jp/Syppan/2023/01/7cb12b6ae84d1894f8bcc17b08f50f13da97ad9d.html |
Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合 |