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『ハイデッガーとギリシア悲劇』 【大学出版へのいざない6】

『ハイデッガーとギリシア悲劇』 【大学出版へのいざない6】

秋富克哉(京都工芸繊維大学基盤科学系教授)

 紀元前6世紀に遡るとされるギリシア悲劇については、ジャンルの成立や歴史についても、個々の悲劇詩人や作品についても、おそらく無数と言いうるほどの研究が蓄積されてきたはずである。哲学の領域でも、古くはアリストテレスの『詩学』、そしてはるか時代を経てニーチェの『悲劇の誕生』、これらは哲学的ギリシア悲劇論としてすでに古典的な地位を築いてもいる。他方、20世紀を代表するドイツ人哲学者マルティン・ハイデッガーについては、哲学界にあって、同時代の哲学者と比べても圧倒的な分量の研究がなされてきたことは疑いない。近年では、約10年前に公刊された「黒表紙のノート」における「反ユダヤ主義」的な発言が世界中を席巻したことも記憶に新しい。

 しかし、これら両者、すなわちギリシア悲劇とハイデッガーという組み合わせとなると、国内外を見渡してもほとんど研究のなされていないのが実情である。その最大の理由は、ハイデッガーの著作にギリシア悲劇を主題にしたものがないことに由る。もっとも、誤解がないように言えば、ギリシア悲劇作品への言及ということなら、今なお大きく取り沙汰されるナチス加担、具体的には、ナチスが政権を獲得した1933年にフライブルク大学学長に就任して行った演説「ドイツの大学の自己主張」で、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』(今この作品の作者の真贋問題には触れないでおく)の一節を引いていることは、早くから知られていた。また、その学長職の早期退任後、1935年に行われた講義『形而上学入門』で、今度はソポクレスの『オイディプス王』に言及し、さらに『アンティゴネ』のなか「人間讃歌」として知られる合唱歌を取り上げたことも周知である。この講義録は、『存在と時間』の途絶が事実上宣言された1953年に、この表題のまま単行本として公刊されたものであり、『存在と時間』と後期思想との関係を探るうえでもきわめて重要なものとされてきた。このような次第で、このソポクレス解釈を扱った研究はなかったわけではない。拙著の執筆でも、その数少ない欧語文献を参考にもした。とはいえ、それらの研究が主題設定という点で、ごく限定的なところを動いていることは否定できない。それも、繰り返せば、ハイデッガー自身の直接的な言及の少なさに由るのである。

 しかしながら、全102巻の予定で刊行されてきた全集版がかなり出揃い、公刊著作以外の講義録、覚書き、とりわけ上記「黒表紙のノート」をもとに、公刊著作だけからは取り出せない様々な主題が扱われるようになった。すなわち、著作には見出せないか、あるいは講義録を含めてもせいぜい断片的に触れられているに過ぎない事象が、覚書きや「黒表紙のノート」の公刊を通して、点と点が線で繋がれるように、それぞれの位置づけや意味づけにおいてこれまで以上に明確に、あるいはそもそも初めて、気づかれるようになったということである。拙著が取り上げる「ギリシア悲劇」もまた、そのような主題の一つである。たしかに、覚書きや「黒表紙のノート」に、ギリシア悲劇についての言及が数多くあるわけではない。その言及は、依然断片的である。しかし、従来知られていたよりも早い時期の言及が、すなわち学長就任以前および以後の時期の言及が、思索の動きとともにいくつか見出されたことは、ギリシア悲劇という主題の考察にとって決定的になった。公刊著作や講義録とは違う性格の資料ゆえ、その扱いには慎重さが求められるとしても、これら新しい資料なしに、拙著の執筆はありえなかったであろう。

 拙著では、「黒表紙のノート」でのギリシア悲劇への言及と結びつけられる「運命」概念をもとに、いったん『存在と時間』に遡って検討することから始め、その後1930年代から40年代の思索の動きに焦点を合わせ、上でも触れたアイスキュロスとソポクレス各々の作品についての言及を考察した。さらに、ソポクレス解釈に大きな影響を与えたヘルダーリンの詩作との思索的対話をもとにディオニュソス像の検討、そしてディオニュソスということから必然的に結びつくニーチェとの対決、最後に、この時期のハイデッガーにとって決定的となった「ヘルダーリンとニーチェ」を改めて論じるとともに、存在そのものを悲劇的とする独自な立場を考察した。

 こうしてハイデッガーにとってのギリシア悲劇を主題的に論じるとき、最後に改めて問われるべきは、上記の時期以降ギリシア悲劇への言及がほとんどなくなるという事実である。これをどのように考えるべきか。ギリシア悲劇という主題をハイデッガーの思索全体のなかで照らし出そうとするかぎり、この試みは、ギリシア悲劇への言及の考察だけでは終わらず、それが言及されなくなることの必然性にも向かわなければならないのである。

 
 
 
 
 


書名:『ハイデッガーとギリシア悲劇』
著者名:秋富克哉
出版社名:京都大学学術出版会
判型四六判/製本形式並装/ページ数:250頁
税込価格:2200円
ISBNコード:978-4-8140-0477-5
Cコード:1310
6月中旬発売予定
https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814004775.html

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