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『ヘミングウェイと逸脱した身体―権力・棄却・ジェンダー』 【大学出版へのいざない9】

『ヘミングウェイと逸脱した身体―権力・棄却・ジェンダー』 【大学出版へのいざない9】

古谷裕美 (関東学院大学建築・環境学部講師)

 アーネスト・ヘミングウェイ (1899-1961) は、第一次世界大戦後の荒廃した世相や、大きく変容しつつある若者世代の価値観や倫理観を、独特の文体で描き出したロスト・ジェネレーションを代表する作家です。モダニズム芸術運動の流れを受けて、装飾的な表現を排除し、説明を限りなく省いたハードボイルドな文体を考案し、独自の文学性を築き上げました。ヘミングウェイ自身が釣りやハンティングをこよなく愛していたことはよく知られており、その文学作品においても、アウトドア・スポーツがしばしば取り上げられ、いわゆる男性の世界が描き出されています。主要人物として男性が物語の中心に描き出される一方で、女性に目を向けると、瀕死の妊婦や、はやり病で急死する新妻、持病の肺病を患う妻など、不健康な女性が多いことに気付かされます。このような不遇な女性像は、1980年代以降、フェミニズム批評の立場を取る研究者からは厳しい批判対象となり、ヘミングウェイは女性を描けない作家としてレッテルを貼られた時期がありました。果たして、ヘミングウェイは本当に女性を描けない作家なのでしょうか。なぜ、ヘミングウェイの描く妊婦は死ななければならないのでしょうか、また、病の女性たちはいったい何を体現しているのでしょうか。ヘミングウェイが描いた不遇の女性の存在を切り捨ててしまうのではなく、その存在意義を見直してみたいという思いが、本著の基盤となる博士論文執筆の動機の一つとなっています。

 文学研究の始まりは学部時代であり、ヘミングウェイの文体の奥深さに惹かれ、学部の卒業論文、大学院前期課程の修士論文において、ヘミングウェイの短編におけるアメリカ先住民表象を分析した後、さらに深くその文学性を追求するために、当時、文学批評理論を学ぶことができたお茶の水女子大学大学院博士後期課程への受験を決意しました。大学院入試の際に、のちに指導教官となる故・竹村和子先生から、「なぜ、ヘミングウェイなのですか」と問われたことはいまだに記憶に残っています。フェミニズムやクイア理論に精通する故・竹村先生にとっては、白人プロテスタント男性の代表格のようなマッチョな作家を、なぜ日本の女子大学院生が研究対象として選ぶのかという疑問を抱かれたようでしたが、私はヘミングウェイが白人男性中心社会を礼賛していたとは全く考えておらず、むしろ、白人男性の優位性喪失やジェンダーの揺らぎを描き出したと考えていました。第一次世界大戦によって社会が荒廃し、世相や規範などあらゆるものが変容した時代に、詩のように短く強い言葉を用いて、克明に時代性を刻み込むヘミングウェイの作風に興味深さを感じていました。余計なことを決して描かないハードボイルドなスタイルにおいて、病の女性や、死亡する女性は必ず重要な役割を担っているはずだと確信していたことから、指導教官に不思議がられつつも、ヘミングウェイ作品の分析を突き進めていくことを決意しました。その後、竹村先生の急逝を経て、名古屋大学大学院で谷本千雅子先生の指導のもと、博士論文として研究をまとめ上げることができました。両先生方に出会えて、博士論文完成まで丁寧に指導していただいたことに深く感謝しています。

 本著の特徴的な点としては、これまで「影」のような存在として、さほど注目されることのなかった傷病に苛まれる女性や、男性同性愛者の身体表象を分析した点にあります。ヘミングウェイの父クラレンスが産婦人科の医師であったことは、創作活動に大きな影響を及ぼしたと考えられ、ヘミングウェイの描く物語では、男女を問わず、傷病にむしばまれた人物が数多く登場します。医師や看護師が登場し、病院などの医療現場が物語の背景としてしばしば提示されています。また、医療の知識と権力が関連付けて提示されたり、医療が機能しない場合に権力の揺らぎが垣間見えたりするなど、医療行為/知識は様々なパワーバランスを生み出しています。傷病に苦悩する女性は深く描かれることのない脇役のような位置づけですが、その暗黒の存在は物語に不可欠な「闇」をもたらしています。不遇な立場の女性たちは一個人というよりは、男性パートナーと合わせ鏡のような存在であり、その不健康な身体は、男性パートナーの窮地や危うい立場を象徴的に示唆しています。本著では、傷病に苛まれる女性および男性同性愛者の身体表象を中心に分析を進め、その「影」や「欠如」のような存在こそが、主要な男性登場人物を形作っていることを明らかにしています。ジェンダー研究の視座から、ヘミングウェイ作品の新たな側面を読み解く研究書となっています。

 
 
 
 
 


書名:『ヘミングウェイと逸脱した身体-権力・棄却・ジェンダー』
著者名:古谷裕美
出版社名:関東学院大学出版会
判型/製本形式/ページ数:四六判・上製・214頁
税込価格:2,420円
ISBNコード:978-4-901734-82-0
Cコード:3098
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https://univ.kanto-gakuin.ac.jp/research/kgu-press.html

 
 
 

書名:大学出版135号(2023年夏)
出版社名:一般社団法人大学出版部協会
判型/製本形式/ページ数:A5判/中綴じ冊子/32ページ
税込価格:100円
https://www.ajup-net.com/daigakushuppan

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