草森紳一蔵書 前編 草森さんの本は川を渡って【書庫拝見17】南陀楼綾繁 |
6月18日の朝、私は帯広駅前のベンチにいた。今朝までいた釧路に比べると、ちょっと涼しい。
しばらく待つと、吉田眞弓さんが車で迎えに来てくださる。帯広大谷短期大学の副学長で附属図書館の館長でもある。 取材の段取りを話しているうちに、車は十勝川に架かる大きな橋に差しかかった。 今回の目的は、草森紳一さんの蔵書を取材することだが、草森さんの実家は渡ってすぐのところにある。その敷地には、自身が建てた「任梟盧(にんきょうろ)」という書庫がある。また、没後に残された蔵書を受け入れた帯広大谷短期大学も、音更町にある。 しかし、私の記憶では、草森さんの著書で「音更町」という単語を目にしたことがない。 付き合いのあった編集者・椎根和さんもこう書く。 実際、草森さんは帯広柏葉高校に通い、本屋や映画館に入りびたった。音更町よりも帯広の方に多くの思い出が残っていたのかもしれない。 これから二日間、私はこの橋を何度も渡ることになる。そのたびに、自転車なのか歩きなのか、橋を渡って帯広に向かう草森少年の姿を思い浮かべた。 そして、永代橋の袂、門前仲町のマンションで草森さんが亡くなり、残された蔵書が音更町にたどり着いた経緯を思うと、何万冊もの本が川を渡るイメージが頭から離れなかった。 本の山に埋もれて生きた人草森紳一は1938年、北海道河東郡音更村生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業後、編集者を経て、物書き(自身の表現)となる。 その範囲は多岐にわたり、自らがつかんだテーマをひたすら掘り進んだ。著作からキーワードを挙げれば、ナンセンス、円、子供、マンガ、イラストレーション、土方歳三、ナチス、アンリ・ルッソー、オフィス、麻雀、写真、書、食客、穴、フランク・ロイド・ライト、中国文化大革命……などとなる。 本屋でも図書館でも、同じ棚に収まらないテーマばかりだ。私は大学二年でその名前を知り、古本屋で著作を集めはじめたが、「こんな本も書いてるのか!」という驚きの連続だった。『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ』全4巻(番町書房)のうち、なぜか第3巻だけが一向に見当たらず、20年近く経って入手できたときは嬉しかった。 その後、小さな出版社にいたとき、草森さんから本を注文する電話があった。どんな人か会ってみたくて、直接持参することにした。門前仲町にあった(いまもある)〈東亜〉という喫茶店の二階で会った草森さんは、ひょろ長い白髪の人だった。年譜を見ると、当時57歳。いまの私とほぼ同年齢であることに驚く。私は28歳だった。 古本好きということで気に入ってもらえたのか、その後もお会いする機会があった。1998年、『季刊・本とコンピュータ』で「『新聞題字』蒐集狂」というエッセイを書いていただいた。締め切りをかなり過ぎてから受け取った原稿を、なんとか解読してゲラにし校正を送ったら、電話で著者校正をすることになった。わずか5枚の文章が一行ごとに真っ黒になり、2時間を超える電話に気を失いそうになった。しかし出来上がった文章は、原稿から格段に面白くなっていた。 草森さんは2008年3月に70歳で亡くなる。 その3年前に刊行した『随筆 本が崩れる』(文春新書、現在は中公文庫)は、部屋に林立する本が崩れたことで、風呂場に閉じ込められた事件を描いたものだ。当時の部屋の状況はこうだった。 草森さんはこの本の山に埋もれるようにして亡くなり、連絡が付かなくなったことを心配した編集者によって発見される。 残された本をどうするか 草森さんは一生結婚しなかったが、2人の遺児がいた。その一人の母親である編集者の東海晴美さんが中心となり、草森さんの蔵書を整理し、寄贈先を探す目的で「草森紳一蔵書整理プロジェクト」がはじまった。 整理にあたっては、マンションにある本の位置をざっと6つに色分けし、それぞれを箱詰めした。印刷会社の紹介で借りた高島平の倉庫に蔵書を移し、6月から整理作業をはじめる。 草森さんの担当者だった編集者で、漢和辞典編集者である円満字二郎さんと、編集・翻訳者の中森拓也さんが中心となり、すべての本をジャンルに分け、箱に詰めなおす作業を行なった。「倉庫のパレット(荷台)が作業台代わりでした」と東海さん。 秋からは、本のデータ(タイトル、著者、出版社、刊行年)を入力する作業を半年以上かけて行なった。その結果、総冊数は3万1618冊と判明した。段ボール箱で731箱にもなる。参加したボランティアはのべ300名にのぼった。 私は整理が一段落した頃に、この倉庫を訪れている。積み上げられた箱が圧巻だった。この倉庫は荒川に面していた。川を眺めていると、この場所に草森さんの蔵書があるのは偶然ではなく、永代橋の袂から隅田川を渡って、ここまで流れ着いたのではないかという空想が頭をよぎった。 蔵書整理を進めながら、みんなで受け入れ先の可能性を探った。いくつか候補はあったが、なかなか実現しなかった。 2009年、当時、帯広市図書館の館長だった吉田さんの元にも、東海さんから手紙が届いた。しかし、同館では3万冊を受け入れる余裕はなかった。 田中さんが学内の合意を取り付け、短大内に草森紳一記念資料室を設置し、学外に保管場所を確保するという体制をつくった。 2009年11月、音更町のオサルシ公民館(元は長流枝小学校)に蔵書が到着する。しかし、ここは安住の地ではなく、翌年、廃校になったばかりの東中音更小学校に移動された。同校での維持費用は音更町が負担することになった。 そして、2010年11月、「草森紳一記念資料室」がオープン。椎根和さんの講演「真の知の巨人」などが開催された。 こうして、草森さんの蔵書は故郷の音更町に戻ったのだ。これは奇跡に近い。 ジャンル越境という点で共通する植草甚一(名前も二文字共通している)の蔵書は、死後、古本市場に流れていった。研究者でなく市井の物書きが集めた膨大かつ雑多な蔵書を一括して受け入れる機関など、存在しない。草森さんの蔵書についても、同じ運命をたどってもおかしくはないはずだった。 仕事の過程を展示する資料室草森紳一記念資料室は、校舎の4階にある。同館を担当する加藤賢子さんが出迎えてくれた。 壁の棚の右側には、マンガが並べられている。あとで見るように、音更町では「草森紳一蔵書プロジェクト」として、ボランティアが蔵書の整理にあたっている。最初に行なったのが、マンガの目録化だった。 草森紳一記念資料室。向かって右側の棚に漫画が並ぶ。 マンガは、草森さんにとって物書きとしての出発点であり、ずっと関心を持ち続けたテーマだった。 左側には、草森さんの著書や執筆した雑誌などが並べられている。 反対側のガラスケースには、生原稿やびっしりと手が入ったゲラを展示。取材時には『本が崩れる』の一部が展示されていた。また、愛用の黒電話や灰皿なども。 『本が崩れる』のゲラや生資料の展示 吉田さんは2013年に同短大に移り、この資料室の担当となった。 また、原稿、写真や記事のスクラップブック、手紙、手帳などの資料も所蔵している。 草森さんはつねにコンパクトカメラを持ち歩き、写真を撮っていた。それらは1万枚以上あり、年ごとや「穴」「水に浮くもの」「自転車」「看板」など独自のテーマで、アルバムや箱にまとめられていた。 テーマごとに分類されたアルバムと写真の一部 2022年と今年、同短大と蔵書プロジェクトの主催で、帯広市図書館と音更町図書館で「草森紳一写真展」を開催した(これとは別に蔵書の展示も行なっている)。「いずれは全点をデジタル化して、データベースにしたいですね」と、加藤さんは話す。 また、毎年の手帳には簡潔に、会う人の名前などが記されている。1998年の記述を見ると、4月のところに「河上」(私の本名)とあり、翌月に「コンピュータ シメ」とある。締め切り日のことだろう。 1995年から98年までの手帳 加藤さんによれば、草森さん宛の手紙の中には、日本近代文学館とのやり取りが何通もあり、そこには「コピー代1万5000円」などと記されていた。草森さんの資料集めへの情熱を感じたという。 廃校になった小学校を書庫にもっとこの部屋で資料を見ていたいが、そうもしていられない。次に旧東中音更小学校へと向かう。 旧東中音更小学校外観 同校は2010年に廃校となり、同年8月に草森さんの蔵書を受け入れた。 中に入ると、複数の教室に整然と棚が並び、3万冊の本が収められている。その姿は壮観だ。同時に、草森さんが集めた本だが、自身はこのように一望したことが一度もないと思うと、複雑な気持ちになる。 初めて一望できるようになった3万冊の蔵書 この本棚は、短大で不要になった古い書棚を持って来、さらに不足の分は東京プロジェクトから寄贈を受けたそうだ。 本は東京のプロジェクトでざっとジャンル別に箱詰めされている。まず、一箱をひとつの棚に詰めていった。 長年関心を抱いた「穴」に関する本が並ぶ棚には、『ザ・穴場』『鍵師』『穴の考古学』『中国現代化の落とし穴』『パンツの穴』などが並ぶ。公共図書館では絶対に隣になることのない本が一緒になっているのが、個人蔵書の魅力だ。もちろん、書き込みや付箋もそのまま残されている。 「穴」と「たばこ」の本が並ぶ棚 棚を眺めているうちに、ボランティアの方々が8名も集まってくださった。「草森紳一蔵書プロジェクト」として活動しているみなさんだ。 草森紳一蔵書プロジェクトの皆さん 2010年2月、帯広大谷短大のオープンカレッジで、東京の蔵書整理プロジェクトを推進した円満字二郎さんが講演を行なった。同年11月、資料室開設記念の講演の際、蔵書整理のボランティアを募集。そこで集まった人たちが、翌年4月から作業に入る。 北村光明さんは地元紙で草森さんの死を知り、参加した。内田美佐子さんは音更町文化協会の『文芸おとふけ』の編集長でもある。同誌では52号(2020年)、53号(2021年)と二度にわたり草森紳一特集を組んでいる(53号には高山雅信「草森紳一蔵書整理プロジェクトの活動の歩み」を掲載)。阿部光江さん、能手真佐子さんは内田さんに誘われて参加。廣川優利さんは昨年の音更町図書館の写真展を見て参加した。 吉田さんが短大に着任してからは、草森さんの書き込みや付箋の情報までを網羅した目録を作成することになった。パソコンへの入力を担当する平良則さんは、「書かれた文字で人柄が判りますね」と話す。 目録に記載する書誌情報のカード 月に1回の作業では、棚の本をテーブルに運んで、話しながら行なう。「おしゃべりしながら作業するのが楽しいです」と、加藤香代子さんは笑う。 2016年に創刊した「草森紳一蔵書プロジェクト通信」では、草森作品の紹介や会員からの一言、実弟の草森英二さん(2019年逝去)の連載などを掲載。現在も発行している。 プロジェクトは、メンバーが入れ替わりながらも、13年も続いている。草森紳一という名前を知らずに参加した人も、いまでは愛読者になっているというのがいい。 作成した目録は、順次、帯広大谷短大のサイトで公開。和書については、今年中に入力が終わる見込み。「洋書や中国書については、まだこれからです」と吉田さんは話す。 整理を進めるうちに、吉田さんが気づいたのは、「ダブっている本が少ない」ということだ。本好きにありがちなのは、買ったはずなのに見つからず、何度も同じ本を買ってしまうこと。私自身もそういう愚行を繰り返している。しかし、草森さんの蔵書にはそれが少ないのだという。 とすれば、マンションに林立する本の一冊一冊の場所までも覚えていたのだろうか? まさか。でも、草森さんならありえただろうか。 本と人の縁の不思議最後にまた、個人的な思い出に戻ることを許してほしい。 2011年8月、当時は茅場町にあった〈森岡書店〉で「本は崩れず 草森紳一写真展」が開催された。私は東海さんからお声がけいただき、草森さんの親友だった『話の特集』発行人の矢崎泰久さん(2022年逝去)とトークを行なった。 壁に貼られた写真を見て、思わず声をあげた。草森さんの部屋の中に積み上がった本を撮った写真の一枚に、1999年に私が出した『日記日和』というミニコミの表紙が写っていたのだ。草森さんに差し上げたことはすっかり忘れていた。 写真の日付は、そのミニコミの発行からずっと後だった。その時期に本の山の一番上にこの片片たるミニコミが置かれ、それを草森さんが写真に撮り、それがいま、私の目に入ることは奇跡に近い。 それから12年。ひょっとして、いまここに並んでいる蔵書の中に、アレがあるのではないか。 和書については大ざっぱにテーマ別になっているが、雑誌については無原則に並べられている。これでは無理だろう。半ばあきらめながら、棚を眺めていった。 15分ぐらい経ったころだろうか、歴史雑誌が並ぶ一角に、一冊だけ背に文字の入っていない冊子があった。すっと抜き出してみると、まさに『日記日和』ではないか! 自身のミニコミと12年ぶりの邂逅 中を開くと、ワープロ打ちの送り状と封筒までが挟まっていた。以前、日本近代文学館の書庫で曽根博義さんに贈った私の本で、まったく同じ体験をしたことを思い出す。 草森さんはこのミニコミをきっと読んでなかったと思う。もちろん、それでいい。でも、草森さんがこうして残してくれ、それを没後15年経って私が確認できた。そのことに、本と人が織りなす縁の不思議さを感じるのだ。 旧東中音更小 帯広大谷短期大学内 草森紳一記念資料室 【追記】 1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。著書に『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、『古本マニア採集帖』(皓星社)、編著『中央線小説傑作選』(中公文庫)などがある。 X(旧Twitter) |
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