古本好きの常で、買うほどには読まない。私もその典型的な一人である。勿論本はかなり読むほうだが、少しでも興味がわけば買ってしまい、ついでにその関連の本まで手を伸ばし、
積ん読山は高い山脈と化していく。幸い田舎住まいで子供たちは独立して家を出ており、家内と二人だけだから本を置くスペースは十分にある。妻の時々口にする苦情と、お父さん死ぬまでにはこの本なんとしてよね、という気の強い娘の説教さえ聞き流せば問題はいまのところない。
2年ほど前に両親を看取った八畳の和室と広い縁側を書斎に変えた。北向きの6畳間を書斎兼書庫にしていたが、この部屋は冬寒すぎて使えないし、本だらけで何も出来ない。母の残した裁ち板を机に改造して部屋の真ん中に据え周囲を書棚にした。北側は窓で南側の縁側の戸を開ければ、夏場でも涼しい。その前に1000冊ほどの蔵書を知り合いの古本屋に処分した。
すっきりした書斎を自慢したが、書店主は言ったものだ。「駄目ですよ、本を少し整理するとそれ以上に増えますから」。まことにその通り、今や書棚の前はまた積ん読山脈となってしまった。
週三日勤務になって家で過ごす時間も増え、この書斎で過ごすのは心休まる至福の時間である。積ん読山を時々整理して処分して良いものと、段ボール箱に入れて物置部屋や使っていない押し入れに仕舞うものを分類する時もある。執筆に関連する物は机の周囲に揃える。書棚は完璧ではないがテーマごとに整理してある。この数年ある執筆テーマの関連で宮沢賢治の研究書がたまってきた。近代文学研究書の中で最も数が多いのは漱石だろうが、賢治も半端ではない。私にとって賢治は中心テーマではないからさほどの量ではないが、その賢治関連書の書棚にある『宮沢賢治論・1・人と芸術 恩田逸夫』(東京書籍)という、いつ買ったか記憶にない本が目にとまった。
様々な研究者の賢治論を集めた本だろうし、端本だから必要ないかなと開いてみた。するとこの本は恩田逸夫の没後に出された初めての賢治関連の単著で三冊からなるものと分かった。編者の原子朗と小沢俊郎は知っていたが恩田のことは全く知らなかった。私が賢治関連書で最初に読み通したのは、堀尾青史氏の『年譜宮澤賢治伝』(中公文庫・1991)だったが、書棚に並んでいるのは中村稔、天沢退二郎、入沢康夫、古いところでは佐藤勝治や小田邦雄の本である。最初に書いたように本を買うばかりで未読の本が多いから、賢治研究書を読んでいれば当然恩田の名も知っていたのだろう。ただ、手元にある草野心平編『宮澤賢治研究』(昭和33・筑摩書房)にも、宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』(昭和44・筑摩書房)にも恩田の論考はなく、河出書房新社の『文芸読本 宮澤賢治』(昭和52)にも収録されていない。
『新文芸読本 宮澤賢治』(1990)に唯一、「詩篇「春と修羅」の主題と構成」という10頁の論考が収録されていた。その執筆者紹介は「一九一六年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒業。明治薬科大学教授。跡見学園短大・武蔵野女子大学講師。著書に『宮沢賢治論』全三冊(東京書籍)、『北原白秋』(清水書院)。七九年児童文学会賞受賞。七九年八月歿」とある。『北原白秋』は生前唯一の単著ということになろう。賢治研究者としては知る人ぞ知るといった感じの方であったのかもしれない。
しかし、この『宮沢賢治論1』巻末に収められた小沢俊郎氏の「回想 恩田逸夫と宮沢賢治」を読んで衝撃的ともいえる感動を覚えた。この回想は小沢の病床での執筆で、恩田の『宮沢賢治論』全三冊同時刊行が1981年10月27日であるが、翌年3月14日に61歳で亡くなっており、絶筆に近いものであったのだ。それによれば、恩田と小沢は東大で昭和21年5月入学の同期、恩田は最年長で30歳、水戸高校を経て京大文学部哲学科在学中に陸軍入営、大陸で転戦し昭和21年復員、陸軍では中隊長だった。京大には戻らず、東大国文学科に専攻を変えて入学。恩田の卒論は「年少文学論攷」であった。児童文学はまだ研究の対象ではない時代であったが、その論攷の中で宮沢賢治を取り上げた。卒業半年後に「宮沢賢治友の会」が発足、ここから小沢も共に賢治研究の道を進むことになった。
「宮沢賢治友の会」は当初『宮沢賢治全集』を出していた十字屋書店をバックに研究誌「四次元」を発行していたが、十字屋が手を引き、佐藤寛が発行人となった。恩田は実質的なプロモーターとなり編集を主導した。友の会を「宮沢賢治研究会」に変更、賢治を近代文学の研究対象に据える方向に導いた。恩田は戦後賢治が広く読まれるようになる中で間違いなく賢治研究の先駆者であったのだ。
小沢は恩田の研究の特色として「組織的研究」「細心緻密と総体的把握」をあげている。
その上で「実証的ということが、悪くすると些末主義に堕することがある。山に入って山を見失う場合である。恩田さんの場合にその心配はまったくなかった。つねに大きく賢治の全体像を描くことを念頭に置いていたからである。目配りの行き届いた緻密な作業の一方で、大胆に賢治思想の核心をつかもとしていた。」
資料集めに邁進するうちに研究から逸れてコレクターのようになってしまうことは少なくない。恩田はその落とし穴にはまらずにすんだのだ。そして一時停滞していた宮沢賢治研究会の活動を復活蘇生させ、202号で終刊(昭和43・11)した「四次元」に変わり「宮沢賢治研究」を発刊(昭和44・4)する。しかし昭和54年8月、63歳で亡くなる。周囲から著書の刊行が切望されていたが、最晩年「宮沢賢治研究 執筆目録」(「明治薬科大学研究紀要」
8号)のみを残して研究の集成は果たさなかった。そして没後、小沢と原子朗が遺稿集『宮沢賢治論』全三冊の編纂を任されるのである。
同書の原子朗の「解説」に依れば、当初編集は原一人に依頼されたが、恩田の研究を網羅すれば優に5冊に及ぶものになってしまう。何を選ぶべきかそれは賢治研究の同行者小沢以外に頼る人物はいないと判断した。その時小沢は病気療養の身であったが、収録可否のリストは届けられ、原の案と付き合わせて刊行に漕ぎつけたとのことであった。
『宮沢賢治論』はA5判で1「人と芸術」390頁、2「詩研究」414頁、3「童話研究その他」401頁の大著である。全部で70編の論考が収められている。芭蕉は生前に自らの句集を刊行せず、それに倣う俳人もいたが、恩田もまるで自分の賢治研究は生涯行きつくことはないという思いでもあったのだろうか。
そんな恩田の生涯を知ると第一巻しかない『宮沢賢治論』3冊を揃えたくなった。ところが2,3とバラバラに買うより3冊揃いで求める方が安いと分かり、結局第一巻はダブってしまった。
恩田の同行者小沢俊郎も戦場からの帰還者であった。広島の高等師範学校を出て青森で教員となり、兵役に続いて結核の闘病生活を経た後、東京大学国文科に入学している。先の
「回想」の中で東大に入学した昭和21年「この年度の特色は、東大ではじめて旧制高校以外の「傍系」出身者にも門戸を開放したことだった。そのため、年齢も経歴も種々雑多な者が入学した。私も、既に教職にあったが、受験の機会が与えられたのを幸い、新しい時潮の中で学び直そうとした一人だった」と書かれている。死に直面する戦場から戻り、恩田と小沢が出会う歴史の不思議である。
ところで、書棚に『小沢俊郎 宮沢賢治論集 1』(有精堂・1987)があり、これも今まで開くことのなかった本だった。この本も没後に栗原敦、杉浦静の編集で刊行された本で全3冊。これまた3冊まとめて買う方が安くて、第一巻がタブってしまった。
その第三巻「文語詩研究・地理研究」の巻末に、奥様小沢和子さんの「賢治研究の傍らで」が収められている。その中に次の一文があった。「恩田さんは昭和五十四年急逝された大学時代からの友人で、同じ賢治研究の道を歩いておられました。原子朗さんと共にその論文を編んだこの本は昭和五十六年も末近くに出版されました。出版社の方が見本を届けに京都まで来られたときには、もう明日の命も知れぬ容態でしたから事のなりゆきをはらはら見守るばかりでした。この本の出版については、間もなく入沢康夫さんが新聞のコラムにお書きになり、その文章を読んだ病床で涙していた姿を思い出します。」
偶然と言うべきか、その入沢のコラムの切り抜きが『宮沢賢治論1』に挟まれていた。1981年12月7日の朝日新聞に掲載された「日記から」というコラムである。全文引用して
拙文のまとめとしよう。
「待望久しかった故恩田逸夫氏の『宮沢賢治論』全三冊(東京書籍)が刊行された。昭和二十四年から一昨年までの三十年間に、雑誌・紀要その他に、氏が発表された賢治論は、その総数二百五十編にのぼる。恩田氏の賢治研究の特質は、あえて一口に言えば、的確・堅実な実証的手続きと、単なる考証に安住せぬ本質への深い読みとの、見事な合致にあった。二百五十編の中には、賢治研究の水準を、一歩も二歩もおしすすめる上で大きな役割を果たしたものが、多々含まれている。
ところが、この恩田氏は、その研究をついに一冊の単行書にまとめられることなく、世を去られた。ここにも、氏の研究に対するきびしさ、潔癖さを見るおもいがする。私は、そうした
恩田氏の態度を、フランスのネルヴァル研究家フランソワ・コンスタンの態度と重ねて考えることがある。コンスタンも、五十年にわたって、研究上欠かせない貴重な論考を雑誌等に発表しつづけながら、それらをなかなか本にまとめようとせず、ようやくそれが一巻の書物として刊行されると、ほどなくこの世を去ってしまった。今回の『宮沢賢治論』には、恩田氏の全業績の中から七十編が、小沢俊郎、原子朗両氏によって選定、編集されている。巻末に付された両編集者の「回想」「解説」も、心を打つ、すぐれた文章だ。」
本はまた増えたが『宮沢賢治論』捨てずに良かった。賢治と戦場から帰還復学した研究者にまつわる古本の話をもう一回続けたい。
※シリーズ古書の世界「破棄する前に」は随時掲載いたします。