JavaScript を有効にしてご利用下さい.
文字サイズ
古書を探す
昨年刊行した『早く逝きし俳人たち』(文学通信)には12名の早世俳人を紹介したが、その中の1人に高橋鏡太郎がいる。『現代俳句大事典』(三省堂)にも立項されている俳人で忘れられた存在ではないが、石川桂郎や吉屋信子、上林暁の評伝の影響で、残した作品ではなく、その晩年の醜態ばかりがクローズアップされてきた。評伝の影響ばかりでなく、作品に触れることが難しいことが、そんな事態を招いていると考え、鏡太郎が参加した俳句誌『風流陣』『多麻』『琥珀』『春燈』などから俳句を抜き出した他、詩やエッセイ、評論類のタイトルを調べられた限り総て収録した。勿論、完璧には程遠く、事実、北園克衛たちとの『風流陣』に関しては埋もれていた第66冊の在処が判明して掲載句を紹介出来たが、迂闊にも見逃した作品が多数あることを友人から指摘されると共に、それらを具体的に教えてくれたので、参加している俳句同人誌『鬣』に掲載した。ところが今回の事務所整理中に、牧野三郎という方が書いた追悼文「高橋鏡太郎の死」のコピー2枚が出て来たので大いに驚いた。かなり時間が経過したコピーで、全く私には記憶がない。4頁あり「37・8・21夜」と書いた日時も分かる。鏡太郎の後見人とも言うべき俳人で酒亭ぼるがの主人高島茂が趣味誌『帖面』の特集号に掲載されたものはあるが、きちんとした追悼文を読んだ記憶がない。その中でこの牧野三郎の文章は内容も素晴らしく、今後どなたかが鏡太郎について書いたり話したりする場合は引用されるべきものと思う。全文ここに翻刻したいがスペース的に余裕がないので、写真を掲載する。拡大して見て頂ければ判読できる筈である。 〇追悼文「高橋鏡太郎の死」1 〇追悼文「高橋鏡太郎の死」2 〇追悼文「高橋鏡太郎の死」3 〇追悼文「高橋鏡太郎の死」4 御覧のようにガリ版印刷で、何に掲載された文章か分からないが、ノンブルが付いているので、恐らくはマイナーな同人誌に掲載されたのではないかと思う。井上康文と『自由詩』という雑誌を出していたというから、そこかもしれない。牧野三郎という人物も初めて知ったのだが、これまた驚いた事に、この方の詩集『声』(研進社・昭和41)も今回別の場所から出て来た。これはコピーを発見する前で、コピーを見て、あの詩集の牧野かと思ったのである。国会図書館デジタルコレクションで検索したら、中原道夫主宰の『棘』という同人誌にも参加していたことが分ったが、『詩学』に掲載された雑誌一覧の記述なので、詩の雑誌だと思うが不明である。現在活躍する俳人中原道夫とは別人である。 この追悼文から、いろいろ私の知らなかったことが分かる。鏡太郎が森鷗外を崇敬していたこと。牧野は鏡太郎の死を東京新聞の折笠君から知らされと書いているが、これは高柳重信等の『俳句評論』同人だった折笠美秋である。鏡太郎も東京新聞にいたことがあるというのも知らなかった。勿論二人が知り合いであったことも。そして何より、林富士馬が事実上の主宰者であった同人誌『新現実』に鏡太郎も参加しいて作品を発表していたという事実である。『新現実』を確認すれば、また鏡太郎の不名誉を挽回する作品に出会えるかもしれない。同誌は神奈川近代文学館にある程度所蔵があるようなので行くことにした。 牧野三郎が書いているように、終戦後の物資不足という事もあって『新現実』は薄い冊子で、現存は少ないだろう。神奈川近代文学館では一冊一冊保護袋に収められていた。『日本近代文学大事典』の林の項目は松本鶴雄さんが執筆しているが、戦時中に出していた伊東静雄たちとの同人誌『光耀』で三島由紀夫の才能をいち早く発見した詩人・評論家とあるほか、檀一雄らと『ポリタイア』を出していたことは解説されているが『新現実』には触れていない。同人に歌人近藤芳美や庄野潤三、大木実、野田宇太郎、後に社会党の代議士となった麻生良方などがいるが、全体に著名な文学者は少なく、林がそうであるように医者や、中心的な同人牧野徑太郎は詩人であると共に印刷業を営んでいたようで、市井の文学者による同人誌といった性格の雑誌であった。
「高橋鏡太郎の死」を書いた牧野三郎の経歴も分からないが、詩集『声』の巻頭に収められた二科会員藤野一友の筆による肖像画を見ると、如何にも繊細な詩人らしい風貌の人物である。 〇牧野三郎肖像画 以前から手元に『新現実』第七次13号(通巻71号)「林富士馬追悼号」(2002年)を所持している。編集体制を変更しながら何度も休刊と復刊を繰り返した雑誌である。高橋鏡太郎との関係で言えば、昭和37年に亡くなっているから第一次と第二次の途中までとなる。ただ一次も二次も1号は神奈川近代文学館には所蔵されていない。しかし同誌を見ていくと、第二巻四号(昭和24年4月)の巻末「社告」に「新現実新同人」として高橋鏡太郎が紹介されている。ただし同号に作品掲載はない。第二巻五号の収蔵はなく第二巻六号に詩「愁訴」一編が掲載されている。次の作品である。 またしてもかなしい目醒めがきた 瞼を閉じぢて偽りの刻をきざんでゐるが もうこんな偽りには耐へられない そむき合ひ 傷つけ合ひ いつそ訣れようと言つたものの 言葉はわたし達から遠く 決意は懶く しかも 愛はまだ容易にわたし達の手に届かない お前のなげきも 私の惱みも わたし達二人が氓びるだけしか役立たぬとしたら ああ一體何がわたし達を擒にしたのだらう 牧野三郎が鏡太郎の妻のことにも触れているが、やがて愛想をつかされ子を連れて家を出てしまった妻との関係を詠ったものであろう。当時の鏡太郎は久保田万太郎が主宰し、彼のいわば後見人ともいえる安住敦の推挙もあり『春燈』に毎号作品を発表していたが、妻や子に去られてからは坂を転げるように生活は荒れて行った。さらに第二巻七号(昭和24年7月)の林による「後記」に次の文を見つけた。 ☆前輯につゞいて、今度は又別な理由から、思ひがけぬ、こんな八頁の雑誌をお送りする 結果になつて了つた。 高橋鏡太郎が、編輯一切を任せてみろとの申し出で、今迄かゝることはすべて同人会には かつて同人各自、責任を分担出来るやうに、お互に存分意見を述べ、議論をたゝかはすこと で、運営して来たわけであるが突然のことで同人会にはかる時間がなく、別な機会に高橋君 と一緒になつて、同人四五人のひとと相談したところとにかく僕に一任するといふことなの で、僕は高橋氏にお願ひすることに決心して、この輯のために用意していた原稿を手渡し た。 僕達の雑誌は、第三種の許可をとつてゐるので、一年間に二輯を休刊するわけには行かない し、僕としては、こんな時代に、敢てこんな形式での同人雑誌に参加して随分おのれに執し て発言して来てゐるのは、又同人としていくらか違つた余程の決心もあつての心算なので、 又々僕は高橋氏に癇癪を起した。原稿もまだ手許に戻つて来てゐない。が、とにかく休刊し たくないために、こんな一冊を編んだのである。 牧野が追悼文で書いている、新橋烏森での酒席の様子にかぶさる事実だ。この第二巻七号以降に、見た限りでは鏡太郎の登場はない。残念ながらここでも鏡太郎は大失策を演じてしまったようである。牧野三郎の記述が事実なら、恐らく第二巻五号に、一、二編の詩を書いたのであろう。だが、残念なことにその号は神奈川近代文学館にも日本近代文学館にも所蔵されていない。 前記の「愁訴」が優れた作品かと言えば「否」というしかないと私は思う。あまりに事実に即した内容で、抽象化あるいは象徴化された表現ではないからだ。 鏡太郎の名誉回復を祈ったが、逆になってしまったようだ。ただ、牧野の追悼文に描かれた鏡太郎の姿は妻にしてみればとんでもない奴になるが、詩人高橋鏡太郎の姿をよく伝えており理解に役立つ資料といえるだろう。 最後に牧野三郎の詩「祈り」を紹介したい。昔、内田魯庵の長男で画家内田巌について「岩が歌う」という一文を『ブッキッシュ』8・特集画家のポルトレ(2004)に書いたことがある。無機質な岩に自らを託す心情を芸術家に見ることは少なくない。この「祈り」は良い詩だと思う。 せめてもの願いに 私の死は 小さな岩のようでありますように 谷間に わずかな陽をうけて仰ぎ 清流にしじゅう洗われている無言の岩 わたしの死は そのようにつゝましく確固たるものでありますように 岩のように 裸でいられなかったために 岩のように 無言でいられなかったために 岩のように 自分の座に根をおろせなかったために わたしの死は 小さな独つの岩でありますように 『声』に跋文を寄せた林富士馬は牧野との思い出を、共に好んだリルケの詩を引用しながら書いている。鏡太郎はリルケ研究者でもあった。鏡太郎はリルケ評伝2000枚を完成させたと書いているが、私は事実ではないと考えている。生活に窮していた彼は金になることなら何でもした。リルケに関する数編のエッセイが私の鏡太郎への関心のきっかけであった。それらの多くが詩の鑑賞であり、評伝的な要素はない。数多いリルケ研究書があり、それらを基に評伝をでっち上げることは出来ても、画期的な評伝は書くことは出来ない。鏡太郎は牧野三郎に「フランスへ行きたい。光春(金子光晴の誤植だろう)のように、友人をペテンにかけても、フランスへ行きたい。しかし俺は多分にアル中だ。俺はどうもダメだ」と語ったらしい。哀れを誘う一言である。
以上を書いて終わりと思っていたが、事務所整理の最終日と決めていた2月25日(要するに退職日)片づけてもなかなか終わらない作業中に、前記した牧野三郎が井上康文と出していた雑誌『自由詩』第2号(昭和24年5月)と、もう一冊『假・街』第2号(昭和28年4月)が出て来た。 〇『自由詩』第2号(昭和24年5月) 〇『假・街』第2号(昭和28年4月) 『自由詩』の方には井上淑子という編集発行人から安藤という方への手紙も挟まれていた。 安藤氏の旧蔵書という事になるが、そんな方から蔵書の仕入れをした記憶はないので、販売用に古書市場で落札した現代詩関係の資料に含まれていた物だろう。牧野は『自由詩』に詩「涯しない病」、『假・街』には巻頭に長詩「悲劇の女」他二篇とエッセイ「感ずること」を寄稿している。共に詩集『声』には未収録である。 巻頭に牧野の肖像を描いた藤野一友が評論「絵画」と小説「マリア」を寄稿している。牧野の肖像画もどこか個性的で面白いし、文章も魅力がある。あるいは有名な画家なのかと思いネットで調べると、何と中川彩子の別名もあるシュールレアリズムの画家で、森茉莉『贅沢貧乏』や三島由紀夫『薔薇と海賊』の装幀もしている。細密な画風が特徴で、後年、フリップ・K・ディックの『ヴァリス』などサンリオSF文庫の装幀画を多数手がけており、私が知らないだけで有名な人気画家であった。 昭和28年頃の若きシュールレアリズム画家と知り、瀧口修造が企画した神田小川町タケミヤ画廊での展覧会にも参加しているのではないかと思い、『瀧口修造とタケミヤ画廊』(佐谷画廊)収録の展覧会一覧(中島理寿編)を見ると、昭和29年4月の第101回が「藤野一友個展」であった。実は昨年11月から刊行を始めた私の個人誌『三昧堂通信』の4号(2月刊行)に、このタケミヤ画廊展のことを書いたのであるが、その時は藤野一友のことはまるで知らなかった。 面白いのが、その小説「マリア」である。6頁1万字の作品で7章に分かれている。改行の代わりに三字だけ明けた活字びっしりの紙面で読みにくいが、中盤からがぜん面白くなり引き込まれた。 幼児洗礼を受けた桐子が主人公だが、洗礼名がマリアで、部屋にもマリア像が飾られている。20代を迎え自然と結婚相手を求めるようになる。初恋は医学生だったが、肉体関係を求められたとき、「マリア」の意識が拒否反応を起こした。友人洋子の恋人水原の家で開かれたパーティーで、深山龍一という画家と出会う。桐子がどういう絵を描くのかと問うと「一口に云へばシュールですが、モロウ風に云へば、見えるものを信じない。触れるものを信じないという絵です」と答える。つまり深山は藤野一友を反映している。しかも、個展を予定しているから見に来てくださいと誘う。昭和28年であるが、29年4月のタケミヤ画廊での誘いが既に瀧口からあったのであろう。小説の中では、個展が開かれたのかどうか、まだ桐子へ招待状は届いていないと書かれている。かなり事実に即している。桐子は深山に惹かれるものを感じたが関係を深めることはなく、今度は総合芸術としての建築を考える原田義夫と出会うところで終わり「未完」となっている。藤野の妻岡上淑子はコラージュ作家でやはり瀧口に認められた写真家である。藤野より先にタケミヤ画廊で「岡上淑子コラージュ展」(昭和28年1月53回展)を開き、昭和31年5月に二回目の個展を開いている。桐子のモデルが岡上とは思えないが、小説の展開は龍一と結ばれるように私は思うが、続きがあったかどうか分からない。 それにしても、日本古書通信社解散に伴う退職の事務所整理最終日に、価値に気付いていなかった雑誌と作品に出合うとは、偶然か必然か、よくよく古本の世界は面白いと改めて痛感したことであった。
Copyright (c) 2026 東京都古書籍商業協同組合