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「昔人の聲 一枚の古文書から」(弦書房)

『「昔人の聲 一枚の古文書から」(弦書房)』

井上道代(人吉市文化財保護委員)

 私は球磨川の恵み豊かな熊本県南部の人吉盆地に住んでいる。四周を山々に囲まれたこの小さな土地で、長い間殿様として君臨したのが相良氏である。鎌倉時代1193年に遠江国相良荘(現静岡県牧之原市)から派遣されて土着し、明治維新までの凡そ七百年間の一氏支配を続けたので、私たちは俗に「相良七百年」と呼称して歴史を遡り綴っている。

 相良氏は当初上下相良の二流があったが、1448年の郡内統一を果たした人吉相良氏が戦国大名の道を目指す。しかし島津氏に敗れ、秀吉の傘下に入り、関ケ原の戦いを経て江戸幕府徳川将軍の下で、二万二千石の小大名として歩み出したのである。どんなに小さくとも一国である。それなりに経営せねばならず、人吉藩の歴史は順風満帆に、穏やかに、明るく、スムーズに、と流れて行ったのではなさそうだ。

 私は大学卒業後故郷人吉で結婚して専業主婦だったが、市教委から人吉球磨歴史資料調査目録作成の仕事を委託されて、思いがけなく「郷土史の世界」に足を踏み入れた次第である。「知らないことを知る」楽しさは大きな喜びとなって、次々と世界が広がって行く。大火事や戦禍に遭った相良七百年は、史料を殆ど消失していてあまり残っていない、というのが通説だった。しかし、おっとドッコイ、探し求めれば郡内各地の家々に、いわゆる「地方文書」と呼ばれる個人史料が眠っていて、次第にその数を増していったのである。生活に関する民俗資料や掛軸、絵画、古文書など、数量は極僅かから数千まで、「まあ良く残っていてくれましたね」と嬉しくなったものである。

 藩関係の歴史資料ではなく地方の個人関係文書は、大きな流れの中で懸命に生きる人々の瞬時の姿が描き出されており、彼等の生活と息吹が感じられるものである。私たちの人生は真砂の一粒と同等で、歴史に名前を残すこともない存在だけれど、やはり、それなりに生きているのだ。歴史の狭間で生きる人々の聲を現代に蘇らせ、彼等の人生が決して無為に終わったのではないと伝えたい。それは結局、今を生きる私たちの人生に重なることなのではないか。そう思い立って、フリーペーパー「ユノ」に掲載を始めたのである

 まずは女だ。「球磨おんな風土記」40回連載で、相良七百年を生きた女たちを奥や歴史の舞台裏から表に出して紹介し、男社会の中で彼女たちの意志や思考力が如何に成長していくのかを届けたのである。この作品は昨年、同名の著作として弦書房から出版できた。次は、なかなか目にしない古文書を相良七百年の歴史の中で活かそうと、「昔人の聲 一枚の古文書から」の題で、「ユノ」掲載を始めたところ、何と現在85話まで続いている。それほど、地方文書からの声が大きく聞こえてくるということだ。相良七百年は歴史と文化が日本遺産に認められるほど、長く豊かで幅広く奥深く情緒に満たされているということだろう。70話までを九章のテーマごとに整理し、加筆訂正をして 今年6月、同題で出版した(弦書房)。

 〔1章〕城下町・球磨川  〔2章〕仕事  〔3章〕芸術  〔4章〕信仰  〔5章〕シルバー・旅  〔6章〕民俗芸能・年中行事  〔7章〕人吉藩校  〔8章〕西南戦争  〔9章〕晩年の相良清兵衛  に纏められた中身の小項は、興味ある部分から読んでほしい。古文書が基本だが、書き下し文と相良史における背景意味付きなので、私としては歴史エッセーのつもりで書いている。

 中には、料理番右田軍左衛門関係文書、八代船仮屋手形文書、岩屋熊野座神社の板絵、お伊勢講文書などのように、球磨川洪水害に被災(2020年)して消失した文書もあり、今後実物を見ることはない。〔9章〕の相良清兵衛は私の思い入れの強い卒論テーマの主人公で、人吉藩史上のスーパーヒーローである。津軽流罪後の彼の人生を辿りながら、私も共に年齢を重ねて歩く感覚だった。この作品で漸く私の卒論が終焉した。

 私はどの古文書も登場人物への親しさを感じている。聲が聞こえてくるのだ。「私はここにいます。自分の仕事に一生懸命励んでいます」。歴史に名を残す人は殆どいない。偶々手紙が残っていたり、多くの人々の中に小さくとも描かれていたりすればラッキーだ。こんな風に未来の誰かが探し出してくれるから。私は未来の昔人。小さな人吉藩の小さな昔人の聲が聞こえて、一冊に纏めることができた。最高に幸せである。


井上道代
1948年、熊本県人吉市五日町生まれ。1971年、鹿児島大学法文学部文学科卒業。1993年より人吉市文化財保護委員、現在委員長。人吉市教育委員会の委託により人吉球磨歴史資料調査目録作成に従事。願成寺・相良神社・青井神社・聖泉院他個人所有文書など多数。球磨絵図活字化。諸家家譜作成。





書名:『昔人の聲 一枚の古文書から』
著者:井上道代
出版社:弦書房
判型・ページ数:四六判/296ページ
定価:2,420円(税込)
ISBN:978-4-86329-327-4
Cコード:0021

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