〈蒐める人〉を蒐める南陀楼綾繁 |
積み残しの宿題のひとつが、ようやく片づいたという気がする。 新刊『蒐める人 情熱と執着のゆくえ』(皓星社)に収録したうち、最も古い原稿は2002年に、書物同人誌『sumus』に載った、元国立国会図書館の稲村徹元さんへのインタビューだ。姉妹編の『編む人 ちいさな本から生まれたもの』(ビレッジプレス)では8年前のインタビューが一番古かったが、16年前というのはまるで仇討の歳月である。 よくもまあ、ここまで寝かせておいたものだ。 ただ、長い間放置していた原稿を読み直すと、インタビューしたのも原稿をまとめたのも自分ではないようで、かえって面白かった。 なによりも、ここに登場する〈蒐める人〉の言葉は、全然古びていない。 雑本についての素敵な文章を書く河内紀さんの、「最終的に『何者でもない』ように自分を処する。これってあんがい難しいことなんですよ」という言には、我が意を得たりと肯き、2012年に亡くなった『日本古書通信』の八木福次郎さんが、「だから僕なんかは、いま八十八歳だという意識はほとんどないですよ」とおっしゃるのを読むと、いまでも神保町を歩いておられるような錯覚に陥る。 新規に収録したのは、古書日月堂の佐藤真砂さんへのインタビューと、都築響一さんとの対談だが、「いま」を語りつつ、時代に左右されない本質を突いた言葉を記録できたと思う。 この数年、有名・無名にかかわらず、人の話を聞いて文章にまとめる仕事が増えてきて、その面白さと難しさを日々感じている。 だから、結果論だが、本書が16年前ではなくて、いま世に出てよかったと思っている。 さて、こうなると気にかかるのは、他にもある積み残しのことだ。 『sumus』では、ラブレターをはじめ紙モノなら何でも集めた池田文痴菴についての文章を三回書いている。彼ら過去の〈蒐める人〉については、著書や雑誌を集めたり、文献を調べたりしてきた。 しかし、ひとつの塊に出来ないままだった。 あれが判らない、この要素が足りないと止まっているうちに、いま目先に迫る仕事に追い越されてしまう。ときどき思い出して、編集者に相談してみても「へー、そんな人がいるんですか」でおしまい。私家版で出すかと思っても、金と気力がついていかない。引っ越ししたら、どこかに資料が紛れ込んでしまう。――そんなことの繰り返しである。 だけど、本書を読み返してみて、やはり自分は〈蒐める人〉が好きなのだと、改めて感じた。 〈蒐める人〉を蒐めることが、これからの私の仕事なのかもしれないと思っている。 そうなると、この十年間遠ざけていた古書即売会や古書目録に復帰しなければならない。 昔のように買いまくり、カオスな状態を楽しむような余裕は、いまの私にはない。 そこで、即売会に通いながら「必要なもの以外は絶対に買わない」というルールを自分に課すことにした。古本屋さんには悪いが、面白そうな本を手にしても、買わない理由を必死に考えているのだ。 このメルマガの読者ならお気づきだろうが、このルールは早晩破綻するだろう。何が「必要なもの」なのかは、買ってみて、しばらく手元に置かないと判らないからだ。 これでまた、カオスな日々に逆戻りか。 うんざりしつつも、古巣に戻ってきたようで、どこかワクワクしている自分がいるのだった。 『蒐める人』刊行記念トークイベント 9月9日(日)西荻ブックマーク ゲスト・岡崎武志+荻原魚雷 http://nishiogi-bookmark.org/ 9月22日(土) 田原町・Readin’ Writin’ BOOKSTORE ゲスト・書物蔵 http://readinwritin.net/
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