本と暮らす出久根達郎 |
数年前、『本と暮らせば』という本を書いた(今夏、草思社文庫で刊)。むろん、井上ひさしの名作『父と暮らせば』の模倣タイトルである。下手なもじりに及んだのは、昨今、家の中から本が消え、本と暮らしていない人が大半だからである。 本と暮らす生活がどのようなものか、まじめに考察するつもりだったが、よくよく考えてみると、私の本を読むような人はすでに実践しているわけで、何も改めて私が説くまでもない。そして本と同居していない人は最初から読むはずがない。ここで私が言う本は、紙に印刷された書籍であって、電子書籍のことではない。電子のそれは、私自身は書籍と称するのに抵抗がある。映像のそいつを蔵書といえるだろうか。 しかし、近い将来には、本といえば電子の方になるのだろう。紙の本は邪魔者扱いされるのだろう。いや、それはすでに始まっている。 先日、所用で外出した折、近所のゴミ集積所に、世界大百科事典の揃いが捨ててあった。きちんと一巻から巻を追って積んであった。三十数年前の版だが、使おうと思えば、十分、事典の用は果たす。もったいないと思うが、出かける身ではどうしようもない。心あるかたにもらわれなよ、と念じながら立ち去った。 夕方、帰途、集積所の前を通ったら、百科事典の山だけが元の位置に残っていた。貼り紙があって、「これはゴミではありません 資源です。資源回収の日に改めて出して下さい」と書いてあった。事典の持ち主に宛てた文言だろう。 私はうなるほど感心した。確かに事典はゴミではない。「資源」である。ものは言いようだ。この貼り紙を書いた人は、本を粗末に扱った持ちぬしに皮肉をきかせたのだろう。 カミさんにかくかくと報告したら、資源ゴミと生ゴミの回収日は別だ、と言ってるんですよ、ゴミ扱いには変わりません、と苦笑した。 百科事典は、いつのまにか、処理されたようである。数日後、集積所に姿は無かった。 別に感慨も湧かないが、あの時、きちんと巻を揃えて集積所に置いた持ちぬしの心情を、あれこれ推量した。長い間、大事にしていた事典ではなかったか。使ったかどうかはともかく、事典と共に暮らしていたのである。何かの事情で手離さざるを得なかった。古書店に相談したに違いない。商売では引き取れぬ、と言われたはずだ。だからといって手元にとどめられぬ事情があった。泣く泣く集積所に運んだのかも知れない。邪魔者だったら、とうの昔に処分していたろう。本と暮らせない特別なことが出来(しゅったい)したのかも知れない。 突然、家の中から戸外に放置された百科事典は、どんな思いであったろう。書物の居場所は家屋、それも書棚がふさわしい。人のぬくもりの感じられる近くである。本というものは、必ず人とつながっているものなのだ、と今更ながらしみじみ思うのである。
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