かわじもとたかさん 古書目録から本をつくったひと
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追悼号、畸人伝、すごろく、装丁家、序文……。かわじもとたかさんは、ほかの人が目をつけない独自のテーマに関する文献を集めた書誌を30年近くにわたって刊行してきた。しかも、その情報のソースが主に古書目録だというのもユニークだ。連載のはじめにぜひご登場いただきたいと、お住まいの近くの喫茶店でお会いした。 かわじさんは1949年、高知市生まれ。母はかわじさんを生んですぐ亡くなった。父は開業医で、かわじさんも医者になるつもりだった。15歳のとき一家で東京に移り、久我山高校に進学した。 「子どもの頃は本にあまり興味がなかったんです。親が『イワンの馬鹿』を買ってくれたけど、それを枕にして寝てたぐらい(笑)。本屋に通うようになったのは、東京に移ってから。古銭を集めていたので、コインの店のある神保町のすずらん通りに通うようになって、ときには本屋にも寄りました。また、中野にいまもある〈明屋書店〉にはよく通っていました」 大学の医学部を受けるが、2浪した。その間、夏の予備校で尾崎放哉の「咳をしても一人」という句を知り、ショックを受ける。講師に勧められた、平野謙の『昭和文学の可能性』(岩波新書)を読んだ。「内容は分からなかったけど、はじめて読み切った本だったね(笑)」。その後、詩に惹かれて壺井繁治、金子光晴などを読むように。 「結局、中央大学の理工学部に入ったけど、当時は大学闘争の最中で授業なんかやってない。それでブラブラしているうちに、大学をやめて印刷所でアルバイトをしました。この頃にはかなり本を読んでいて、『日本読書新聞』『図書新聞』『週刊読書人』などの書評紙に載っている出版社の広告を見て、出版目録を取り寄せたりしました。また、兄に連れられて、荻窪古物会館で開催されていた古書展に行ったこともあります」 結婚を機に、中野の病院で検査助手として働く。資格を取るために、板橋区大山にある検査学校に通った。すぐ近くに〈竹田書店〉という古本屋があって、そこで清水崑の本を買ったりした。 「詩の次にカッパに興味が移って、カッパの絵を描いていた清水崑の本を集めたんです。検査技師という仕事もがん細胞がどこにあるのか調べて探すことが大事ですが、本に関しても調べることが楽しくなってきた。高円寺の〈都丸書店〉で、女性の店主が帳場で仕入帳を開いているのを見て、自分でもノートをつくるようになった。古書目録からたとえば、鳥瞰図画家の吉田初三郎というテーマに関する本の情報を切り抜いて『閑地(あきち)』というタイトルをつけたノートに貼るんです。その後、個別のテーマごとのノートもつくっています。『すごろく』などは何冊にもなりました」 東京古書会館や西部(高円寺)、南部(五反田)、横浜(反町)などで開催される古書即売展に通う。買えないときは本のタイトルなどをメモ用紙に書き込む、 「古本屋さんとはなるべく知り合いになりたくないですね。プロの目から見たらなんだと思われるような本ばかり買っているし(笑)。『「月の輪書林古書目録」を一考す。』(2016)という本も出していますが、月の輪さんとはいまだに面識はありません」 41歳のとき、仕事が外注になったことをきっかけに、それまでの人生を振り返るようになった。 「がん細胞を見つけることに情熱を注いでいたので、自分の仕事は何だったんだという疑問が生じました。それで、これまで調べてきたことをもとにして、定年までに本を10冊出そうと決意するんです。最初に出したのが『追悼號書目』(1991)です。仕事柄、死についての関心があったので。編者はジョン・クロゼットとなっていますが偽名で、ジョンもクロゼットもトイレを意味する単語です(笑)。自費出版で100部つくりましたが、問い合わせが多くてすぐに売り切れました。ぼくの本はすべて杉並けやき出版から刊行していますが、どれも自費出版です。同社の小川剛さんは昔からの知り合いで、ぼくが彼のがん細胞を見つけたんです。出版費用を捻出するために、本来の仕事のほかに、別の施設でアルバイトをしました」 『死に至る言葉』(1993)、『畸人傳・伝』(1995)のあと、1999年に『水島爾保布著作書誌』を刊行。水島は谷崎潤一郎『人魚の嘆き・魔術師』の挿画で知られる画家で、随筆家でもあった。息子はSF作家の故・今日泊亜蘭さん。かわじさんと同郷の安岡章太郎がエッセイで触れていたことで水島を知り、随筆集『愚談』を京王百貨店の古書市で掘りだして以来、彼の仕事を調べてきた。 「この本がきっかけで、作家の山下武さんが主宰する参土会に参加するようになりました。月に一回集まって、交代で発表するんです。そこで会った人からいろいろ教えてもらいましたね」 次第に本の置場所がなくなり、洋服ダンスが本で埋まるようになった。高知の姉の家に置いてもらっていたが、「どの本を送ったかメモしておいても、あんまり役に立たないですね(笑)」。結局、すべてブックオフで処分した。 その後、『古書目録にみた「すごろく」』(2003)、『装丁家で探す本』(2007)と続き、『序文検索』(2010)と『序文検索2箇目』(2014)では、本の序文や跋文を書いた人物に注目した。 「もういつまでも生きていられないかもと思って、それまでの仕事を59歳でやめて、この本をつくりました。日本近代文学館に通って全部の目録カードを見るのに、3年2か月かかりました。さらに、古書目録やネット古書店のデータから古書価を調べて入れています」 そして、10冊目となる『続装丁家で探す本 追補・訂正版』(2018)は、600ページを超える厚さで、430余人・9100冊の装丁本のデータを掲載している。 「竹久夢二のように有名で、美術館もあるような人は外しましたが、それでもどこまでで止めるかが見えませんでした(笑)」 目標の10冊を出し終えても、かわじさんの探索の日々は終わらない。ノート、日記、手帳、美術館通いのメモ、夢日記と、さまざまなものに同時並行で記録している。バスの待ち時間にも思いついたことをメモするので、退屈している暇はないと云う。 「41歳で仕事上の挫折があったとき、このまま消えていくのは嫌だと思ったんです。世の中に本を残すことが、自分の存在価値だと思いました。文章を書くのは苦手だけど、仕事でこつこつと症例を集めていたのと同じで、どれだけ多くのデータを入れられるかにはこだわりたい」 かわじさんは最後に、「ポコ・クランテ」と題したノートを見せてくれた。 「フランス語でわき見ばかりという意味です。チャールズ・ダーウィンが子どもの頃にこう呼ばれたそうです。でも、ダーウィンは主流ではなく傍流のテーマに興味があったんです。ぼくも同じで、つねに傍流の方へと行きたいです。いまも、色の本、父についての本(誰が何歳で自分の父のことを書いたか)、数字が付いている本など、ありそうでこれまでなかったテーマを調べて、記録しています。こういう生活は死ぬまで終わりませんね(笑)」
南陀楼綾繁 ツイッター 杉並けやき出版
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