古書目録「堀紫山伝」のこと(三)
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堀紫山の手元に届いた手紙は、いったい何通あったのだろう。 寝床に入って、ふとそんな疑問がわいた。 紫山は、新聞記者という職業柄、人とのつきあいが広い。一千通、いや三千通はあったか。紫山の生涯は76年、当時としては長生きだ。年少の頃からたんねんに数えたなら、五千通を超えたかもしれない。 だけど今、我が手にあるのは、明治26年12月15日付の小栗風葉の書簡に始まり、堀紫山を「たった一人の友」と呼ぶ上司小剣の昭和11年9月11日のハガキまで、わずか200通にすぎない。 それでも、関東大震災、東京大空襲、そして敗戦と大小さまざまの災禍をくぐり抜け、よくぞこの令和の世まで生き残ってくれたと天に感謝したい。 さて、この200通、保存状態が極めて良いのだ。ひょっとして紫山は、考えに考えぬいて、後世に遺すべしと200通を選び大切に保存して来たのかもしれない。 内田魯庵が「硯友社の幕僚」と呼んだ紫山だ、尾崎紅葉からの手紙は少なくとも50通はあったと思うのだが、手元には母方の祖母・荒木せんの死をつたえるハガキが一枚、それに年賀状一枚と、あきらかに少ない。 紅葉死去の際、新聞社に手紙を貸したまま戻って来なかったのか? あるいは紅葉門下の後輩に懇望されてあげてしまったか? 不可解なことはまだある。 紫山の妹の堀保子だ。 保子は、夫だった大杉栄が殺された半年後の大正13年3月15日午後6時、紫山の住む芝区二本榎の家で息をひきとった。41歳。病に伏し、引越せざるおえなかった大正12年11月まで、一人で暮らした四谷区南伊賀町の家財はすべて兄の家に運び込まれたはずなのに、保子の肉筆がハガキ一枚しかないのは一体どうしたことか。 堀保子研究が、伊藤野枝にくらべてはるかに立ち遅れている一端はこんなところにあるのかもしれない。 日蔭茶屋事件で大杉栄と別れた後、保子は大正7年7月、独力で個人誌『あざみ』(全4冊)を発行した。現物は沓(よう)として姿をあらわさない幻の雑誌だが、『初期社会主義研究』15号(平成14年)に「総目次」が掲載されている。馬場孤蝶、山田わか、安成二郎、堺利彦、岡野辰之助、徳永保之助、小寺菊子、遠藤清、そうそうたる執筆者のラインアップだ。読みたいが読めないもどかしさ、誰か『あざみ』を所持している方がいたならぜひ買わせて下さい。保子が心血をそそいだこの雑誌を隅から隅まで読み込むことで、堀保子の研究は一気に前に進むと思うのだが。 それにしても堀保子の生資料は、いったいどこへ消えてしまったのか。 そんなことを考えていたら、お客のSさんから四谷の西念寺の近くで保子が昔住んでいた家を発見したとの便りが舞いこんだ。 先日、新宿に用があったので、四谷駅から西念寺をめざして歩いた。 四谷は懐かしいところだ。今は影も形もなくなったが、駅横の戦後のにおいがプンプンただようマーケットに古河三樹松さんがいて、幾度か話をききに行ったことがあるからだ。三樹松さんは当時85歳位だったが、三坪程の古河書店の現役店主で、木の踏み台にちょこんと立って店番をしていた。三樹松さんは、とても小さな人で、踏み台に乗らないとレジスターに隠れてしまうのだった。 三樹松さんは、明治44年1月24日に大逆事件で処刑された古河力作の弟でもあった。 堀保子は、その死刑執行の3日前に大杉栄と古河力作の面会に東京監獄を訪れている。当時10歳だった三樹松さんは、その時のことを大人になってから保子と話すことがあったのかな、そんなことを考えながら、大通りを新宿へ向って歩く。歩き始めてすぐの細い路地を左に折れると、そこは、堀保子が大正時代、何度も行き来した西念寺横丁だ。どこか淋し気なその道の行き止まりに保子はいた。 小柄で色白、額が広く口がちょいと大きい、好奇心が強く利巧で根性もある、だけど、何より片意地な女、堀保子の旧宅跡をしばし見つめた。 古書目録「堀紫山伝」の本当の主人公は、堀保子なのかもしれない、そんなことを思った。 (おわり)
高橋 徹(たかはしとおる)
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