ホトトギス稲畑廣太郎 |
中学か高校の教科書で「ホトトギス」という俳句雑誌が嘗て発行されていた、ということを御存知の方は多いだろう。しかしその雑誌が途切れることなく、現在令和の世になっても発行し続けられている、ということを御存知の方は少ないのではないだろうか。
明治三十年一月、愛媛県松山市で「ホトトギス」は、かの俳人正岡子規を中心として、子規の盟友柳原極堂によって創刊された。当時は俳句雑誌はおろか、月刊誌という形態で発行される書物は珍しく、どのようにしたらこのように伝わるのかが不思議でもあるが、あるお婆さんが発行所を訪れ「『ホトトギス』なる脚気の薬が出たということだそうだが、ひとつ私に売ってくれんかね」と言って来た、という笑うに笑えない話も現在に伝わっている。そんなこともあったが、取り敢えずは松山を中心に発行されていた俳句雑誌であったが、やはり現代のようなネットワークが当時あるわけもなく、ローカルの雑誌として、結局第一号から第二十号まで発刊したところで経営破綻の危機を迎えたのである。当然柳原極堂は子規に相談するのだが、子規は当時東京に居た高濱虚子にこの雑誌を任せる、という案を考えた。実は当時虚子はこの時タイミング良く何がしかの雑誌を発行したかったという希望を持っていたのである。 こうして明治三十一年十月から「ホトトギス」は、高濱虚子を発行人として東京で発行されることになった。そして当時としては斬新な俳句雑誌として多くの読者を得たが、ある転機が訪れることとなる。そう、夏目漱石の登場である。勿論明治三十年代の漱石は未だ無名であるが、虚子に勧められて書いたある小説が大ヒットする。これがかの「吾輩は猫である」である。漱石はこの小説を最初「猫伝」として書き始めたが、虚子が「ホトトギス」に掲載するにあたってどうも題名が気に入らなく、結局最初の始まりの一文をそのまま題名としたこともこの小説の面白さの一つであろう。 ここで又転機があり、「吾輩は猫である」によって一層売行きを伸ばした「ホトトギス」であるが、虚子は俳句よりも小説に興味を持つようになり、この雑誌を俳句雑誌から文芸雑誌へと変貌させてしまうのである。最初は文芸雑誌としての評価は高かったが、俳句を志す人の多くは虚子の許を離れて行ってしまい、漱石も売れっ子になり「ホトトギス」にあまり寄稿しなくなったりしてだんだん経営も悪化してきた。これは明治四十年頃から大正二年までであったが、大正二年になると、又虚子は一念発起して俳句雑誌として立て直す決意をした。その後は俳句雑誌として、昭和十三年四月に五百号、昭和五十五年四月には一千号、平成八年十二月は創刊百年を迎えた。そして現在最新号の令和元年十月号の時点で千四百七十四号である。 これは俳句雑誌全体にも言えることであるが、「ホトトギス」でも、読者によって誌面が作られている、ということに尽きるだろう。本を購入された方なら何方でも巻末の投句用紙で自分の俳句作品を投句出来、そして選者が選をする。毎月どのような句を選者に投句して、その中から選者がどの句を選ぶか。その選者とのコミュニケーションによって、俳句作家として、読者一人一人が研鑽を積んで行く。俳句は五・七・五の十七音で季題を詠む詩、と言うと少し難しく思われる方がおられるかも知れないが、日本人なら、誰でも俳句作家という詩人として文學の世界に遊ぶことが出来るのである。 俳句雑誌『ホトトギス』 |
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