もう20年近く前のこと。当時、『季刊・本とコンピュータ』の編集スタッフだった私は、仕事場にいるときに暇ができると、思いついた言葉を検索していた。そうやって見つけたサイトは聞いたこともない古書の図版を載せていたり、マイナーなテーマの研究成果を発表したりしていた。
藤田加奈子さんによる「戸板康二ダイジェスト」もそのひとつだった。演劇評論家にして小説家、エッセイストの戸板康二について、さまざまな角度から光を当てていた。私も中村雅楽ものの推理小説や人物エッセイは好きだったが、戸板康二自身のことは何も知らなかった。だから、ひとつひとつの記事やデータが面白かった。
サイトの中にあった「日日雑記」は、日々の古本屋通いや映画館で見た作品などを記しており、私自身の興味に重なるところがあった。当時、女性が古本について書いた文章は、雑誌でもウェブでもまだ少なかった。2003年からは「日用帳」という名前でブログとなり、文章の量も増えた。のちにご本人にお会いしたとき、饒舌ぶりがブログそのままで笑ってしまった。
「ナンダロウさん、久しぶりですね!」と、藤田さんは相変わらず饒舌だった。乗ってくると早口になるので、メモが追いつかない。しばしば制止しながら、話を聞いた。
藤田さんは1974年、長野市生まれ。一人っ子で、会社員の父と主婦の母との3人暮らし。父も母も小説好きだったが、家にはあまり本はなかった。例の黄色い表紙の『チボー家の人々』 (白水社)があったのは覚えているそうだ。
小学1年から東京の武蔵野市に住む。武蔵野市公会堂の隣に市立図書館があり、そこに一人で通うようになる。平家物語や源氏物語など古典を子ども向けにしたものを読んだ。高学年になると、新潮文庫で芥川龍之介、太宰治などを買い、通学するときに電車で読んでいた。
中高一貫の私立校に入ると、経堂まで電車で通う間にさまざまな本を読む。
「新潮文庫と岩波文庫で萩原朔太郎、大江健三郎などを読みました。この頃創刊した講談社文芸文庫は定価が高かったけど、大江などを買いました。『ちくま文学の森』は初めて読む作家が多くて、楽しかったです」
学校の図書館は蔵書が多かった。三島由紀夫が割腹自殺した日の新聞の縮刷版を引っ張り出して、友人と見たりした。図書委員になり、文化祭で古本市をやったという。
女子高生らしく、『mc Sister』や『Junie』も読んだが、『Olive』では洋書店の紹介記事に「ステキ」とうっとりし、『本の雑誌』や『リテレール』をブックガイドとして愛読する立派な本好きになっていた。
はじめて古本屋に行ったのは、高校生のとき。学校帰りに吉祥寺や三鷹の古本屋に寄った。
「友だちには古本は汚いと云われましたが、私は気になりませんでした。『大江健三郎全作品』(新潮社)などを買いましたね」
大学浪人のときは、神保町に近い予備校に入り、〈東京堂書店〉や〈三省堂書店〉などの新刊書店に通った。翌年には慶應義塾大学経済学部に入学。渋谷の新刊書店でアルバイトをする。
「愛読している作家が来店したときは、すぐ判りました。アルバイトは割引で本が買えるのも嬉しかったです」
在学中に海外旅行に出かけ、ニューヨークの本屋で、柴田元幸訳で読んでいたポール・オースターの原書を買ったこともある。
卒業後、仕事が決まらなかった時期に、藤田さんは趣味の世界に入り込む。
「唐澤平吉『花森安治の編集室』(晶文社)を読んで、子どもの頃、母が購読していた『暮しの手帖』が懐かしくなり、当時、六本木にあった暮しの手帖社別館でバックナンバーを読みました。そこで、創刊号に掲載された戸板康二の『歌舞伎ダイジェスト』を読んだんです。これが戸板康二との出会いでした。花森安治のカットがステキでした」
歌舞伎を観たり、閉館する間際の銀座の名画座〈並木座〉で黒澤明や成瀬巳喜男の映画を観るなど、藤田さんのなかで日本的な文化への嗜好が強くなっていた時期だった。
その翌年、銀座の〈奥村書店〉で『歌舞伎ダイジェスト』の単行本を買う。この店では戸板の『歌舞伎への招待』(衣裳研究所)も購入した。その頃から、藤田さんは「戸板康二の本を集めよう」と思い立つ。
「吉祥寺の〈よみた屋〉、荻窪の〈ささま書店〉、神保町の演劇関系の専門店〈豊田書房〉などを回って、戸板康二や歌舞伎の本を探しました。就職が決まっても、会社の帰りに早稲田の古本屋街に寄っていました(笑)。また、江戸東京博物館の『荷風と東京』展に感激して、野口冨士男の『わが荷風』から派生して、野口が編集していた雑誌『風景』も集めるようになります」
戸板康二の『あの人この人 昭和人物誌』(文春文庫)を読めば、そこに出てくる獅子文六、十返肇らのことが気になり、彼らの本を探すようになる。自然に買う本の範囲が広がってくる。まさに古本沼にハマった状態だ。
「一人暮らしするようになると、解放されてさらに本が増えました(笑)」
1990年代末から2000年代の頭にかけては、出版メディアにおける「古本ブーム」が起こっていた。古書業界としてはバブルの時期から売り上げが後退し、デパートでの即売会も終了するところが増えた。そんな時期だからこそ、むしろ注目が集まったと云えるだろう。唐澤俊一や岡崎武志、坪内祐三らの古本エッセイ、月の輪書林をはじめとする古書店主の本などが、晶文社などから次々刊行され、活気があった。古本屋を特集する雑誌やムックも出た。その空気が、藤田さんの古本好きを加速させたのだろう。
「岡崎さんや坪内さんのエッセイで知った本を、古本屋で買おうと思いました。大村彦次郎さんの『文壇うたかた物語』など文壇三部作が出るのもこの頃で、かなり影響を受けました」
2001年には、人から教えてもらい、石神井書林の古書目録を手に入れる。サイトの日記には、「噂に違わず、んまあ、なんて素晴らしい目録なのでしょう。まさしく、ページをめくる指を止めることができない」と興奮を抑えきれずにいる。
その後、月の輪書林の目録も入手。その勢いで、五反田の南部古書会館の即売会にはじめて足を運ぶ。
「雑多に古本が並ぶなかから、100円で買えるのが魅力でした。古本屋の店舗では店主の目が気になるけど、即売会では荷物を預けるのでのびのび見て回れます。その頃はまだ女性客が少なかったせいか、帳場の古本屋さんによく話しかけられました(笑)」
同じころ、神保町の〈書肆アクセス〉で書物同人誌『sumus』の洲之内徹特集を買い、バックナンバーも入手する。その後、『彷書月刊』『日本古書通信』の二大古書雑誌も読むようになった。神保町の古書会館にも行くようになる。
藤田さんは1998年頃からウェブで日記を書いていたが、2002年にはサイト「戸板康二ダイジェスト」を開設。自分用のメモのつもりで、戸板の著書やプロフィールなどをまとめた。翌年にはブログ「日用帳」をスタートし、古本屋めぐりや買った本について書く。これが注目され、2004年には『ブッキッシュ』第6号の特集「戸板康二への招待」に、戸板康二ブックガイドを寄稿した。
「サイトやブログで書くために、戸板康二や東京について、国会図書館や大学図書館などで調べるようになりました。その習慣はいまも続いています。いま調べているのは、東京のテレビ塔のことです。なかなか先に進みませんが……」
戸板康二関連では、戸板が参加していた句楽会の句集『もずのにへ』と同会の雑誌『太平楽』を〈扶桑書房〉の目録で見つけ、9万円で購入。そこで判ったことを、雑誌『游魚』第6号(西田書店)に寄稿した。ブログ「戸板康二ノート」ではその余話が掲載されている。もっとも、「余話」と呼ぶには恐ろしく長い文章である。
「書きたいことは、まだたくさんありますね。コンスタントに調べて、ブログで書いていきたいです」
ちなみに、戸板康二本のベスト3は? と訊くと、悩みながら答えてくれた。
「『演芸画報・人物誌』『六代目菊五郎』『久保田万太郎』『折口信夫坐談』ですね。あ、4冊になっちゃいました(笑)」
即売会はよく行くが、2014年に〈奥村書店〉が閉店して以来、店舗に足を運ぶことが少なくなった。ただ、関西に旅行に行くと、古本屋をめぐる。
「新型コロナウイルスの影響で、昨年春に即売会が中止になったときはつまらなかったですね。7月に東京古書会館で趣味展が再開されたときは、わーいと喜んで駆け付けました。バカみたいにたくさん買っちゃいましたよ(笑)」
それにしても、買った本はどう整理しているのだろう。ましてや、藤田さんは『脇役本』(ちくま文庫)などの著書を持つ濱田研吾さんと結婚している。マニアックな古本好きの夫婦なのだ。
「本棚は別になっていて、夫の本棚は片付いています。私の本がそっちに侵食すると、黙ってどかされるんです(笑)」
改めて古本の魅力は? と訊いてみた。
「世に埋もれている本と出会えることですね。私が手に取らなければ、ひょっとしてゴミとして捨てられたかもしれないと思うと、資料として残しておかなければと思います」
藤田さんは今後も、戸板康二をはじめとする好きなテーマを愛でつつ、自分のペースで進んでいくだろう。
藤田さんのブログ http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/
ツイッター https://twitter.com/foujika
南陀楼綾繁
1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。各地で開催される多くのブックイベントにも関わる。
「一箱本送り隊」呼びかけ人として、石巻市で本のコミュニティ・スペース「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。本と町と人をつなぐ雑誌『ヒトハコ』(書肆ヒトハコ)編集発行人。著書に『ナンダロウアヤシゲな日々』(無明舎出版)、『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)、『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、共著『本のリストの本』(創元社)などがある。
ツイッター
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