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メールマガジン記事 シリーズ古本マニア採集帖

第28回 下平尾直さん 出版の出発点に古本があるひと

第28回 下平尾直さん 出版の出発点に古本があるひと

南陀楼綾繁

 7年前、千駄木の〈往来堂書店〉で、藤原辰史『食べること考えること』と都甲幸治『狂喜の読み屋』の2冊が並べられていた。店長の笈入建志さんによると、版元の「共和国」の最初の刊行物だという。その時点ではどちらも知らない著者だったが、造本の良さに惹かれて前者を買った。その後も池内規行『回想の青山光二』など、値段は張るが手元に置いておきたい本を出す出版社として印象に残った。
 2年前に出版業界紙で、社主の下平尾直(しもひらお・なおし)さんに取材をした。東久留米のファミレスで3時間近い話を聞くと、端々に古本のことが出てくる。この人の根っこには古本や古本屋の経験があるのだろうと感じていたので、今回話を伺うことにした。
 
 下平尾さんは1968年の元旦、大阪府高石市に生まれ、岸和田市に育った。両親と3つ下の弟との4人家族。父は会社員。母は本好きで、本棚には文学全集や美術全集が並んでいた。
 幼稚園のときに読んだ絵本では、「少年がコールタールまみれでひたすら道を歩く」場面がなぜか記憶に残っている。
 小学校に入ると、星新一や司馬遼太郎を読むようになる。『小学4年生』で当時のアイドルの太川陽介が太宰治の『人間失格』が面白いと話していたことから興味を持った。
「母に読んでみたいと云ったら、デパートの本屋に行ったときに、店員さんに『人間失格』ってどうなのって聞くんですよ(笑)。店員が『ちょっと早いかもしれませんね』と云ってその時は買ってもらえず、後で、巡回図書館の車内で新潮文庫の『ヴィヨンの妻』を見つけて読み、むんむんと扇情的な描写に昂奮したのが文学への目覚めでした」
 近所には数軒の新刊書店があり、それらをはしごして、新潮文庫の太宰治を少しずつ買った。さらに芥川龍之介、菊池寛、森鴎外などの短篇集も片っ端から読んだ。
「薄くて安かったからですが、短篇は読んでハッと気づかされるところがあって好きでした。中学に入ると、太宰の『女の決闘』に出てくるクライストやホフマンを岩波文庫で探しました。古典的な海外文学もひと通り読みましたが、同時代のSFやミステリなどはまったく読まなかったですね。古いものばっかりで」
 中学校ではABBAやビートルズなどの音楽にハマり、とくにビートルズはファンクラブにも入った。「25年後に上京してから西武池袋の古書展で、ペンネームで投稿した会報を見つけたんで、すぐにレジに持って行きました(笑)」。
 下平尾さんは私と同学年だが、エンタメ小説ばかり読み、テクノポップとフュージョンばかり聴いていた私と違い、文化の王道を走っていたのだなと感じる。もちろん、どっちかいいという話ではないが。

 中学3年のとき、岸和田の書店で織田作之助『夫婦善哉』(新潮文庫)を見つける。当時、織田作の文庫は新刊でこれしか買えなかった。
「他の書店には置いてなかったから、返品漏れか売れ残りだったんでしょう。最初はあまり面白くなかったけど、阿倍野にある高校に通うようになり、通学途中に織田作の小説の舞台を通ってみたら、ばーっと風景が浮かんできて、一気に愛着が湧きました」
 はじめて古本屋で買ったのも織田作の本だった。梅田の「かっぱ横丁」にあった〈加藤京文堂〉(マンガ家のグレゴリ青山さんがここでのバイト体験を『ブンブン堂のグレちゃん』で描いている)で、『世相』の初版を2000円ほどで買う。
「同書に入っている『四月馬鹿』は、武田麟太郎を追悼した小説です。それで気になって、古書で新潮文庫の『銀座八丁』を買い、その後、大阪球場の一階にあった「なんばん古書街」で『武田麟太郎全集』全3巻(新潮社)を買います。文学とロック以外のものにはまったく関心がなくて、典型的な文系人間でした」
 高校は私立男子校で、制服のない自由な校風だった。下平尾さんは在学中に文化祭の実行委員を務め、プログラムの編集担当係だった。「それが私のはじめて編集した印刷物です。2万部印刷したのですが、もうこれから先はこの部数を抜けそうな気がしません(笑)」。

 1年浪人して、関西大学法学部に入る。現代思想ブームに反発して西洋マルクス主義関係の本を読むうちに、たまたまドイツ文学者・池田浩士の『ルカーチとこの時代』(平凡社)を手にする。
「当時、私の聖地みたいに通っていた〈旭屋書店〉本店で買いました。難しいけど面白かったので他にもあれこれ池田さんの本を読んだら、東アジア反日武装戦線のことが書いてあった。関心を持って大阪で救援運動をしている会に行ってみたら、先日亡くなった水田ふうさんがいて、すでに死刑判決が確定していて、この会ではすることがないよ、と。ふうさんがパートナーでアナキズム詩人の向井孝さんを紹介してくれて、死刑廃止運動の例会に顔を出すようになります。ネクラな文学少年が社会化された瞬間です(笑)。関大駅前にあった〈ボーケンオー〉という古本屋の店主が岡本民さんという運動系のフォーク歌手で、池田さんが関大でも非常勤で教えていると云うので、2年くらい、ふうさんと授業に潜りこみました。そうやって池田さんにも面識を得たのですが、当時から、考え方はマルクス主義、行動はアナキズムと、両方に足をかけてたんですね」
 この頃、金賛汀『朝鮮人女工のうた』(岩波新書)を読んで驚いたことがあった。
「サブタイトルに『1930年・岸和田紡績争議』とあるように、強制連行されて岸和田紡績の工場で働かされた朝鮮人女工のストライキを描いたものですが、最も戦闘的だった春木工場の跡地に、私が通っていた中学が建っていた。ここは小説『岸和田少年愚連隊』の舞台になった中学なんですが、さらに調べてみると、このときストライキを調停した堺警察の署長が武田左二郎といって、武田麟太郎の父だった。奇縁を感じましたね。授業にはまったく出ませんでしたが、こういうことを調べる勉強は面白かった」
 関大の図書館は一時期、書誌学者の故・浦西和彦氏が図書館長を務めており、充実した蔵書で知られる。下平尾さんはその図書館の書庫に通いつめて、手あたり次第に貴重な本や雑誌を読みまくった。並行して、死刑廃止運動のイベントを手伝ったり、日本寄せ場学会の雑誌『寄せ場』の編集委員や「文学史を読みかえる」研究会の事務局を務めたりした。
「この頃は運動と読書が結びついていました。プロレタリア文学や転向作家、戦争作家への関心も生まれ、底辺から社会を見る視点を持つようになりました」と、下平尾さんは振り返る。

 大学1年から朝日新聞社の編集局でアルバイトをし、5年目からは東宝の宣伝企画室でアルバイトをする。「イベントでゴジラの着ぐるみに入ったこともあります(笑)」。留年を重ね、7年生のときに父が亡くなる。「こんな親不孝もありません」
大学卒業後、大阪のデザイン会社でコピーライターとして勤めたあと、池田浩士さんから誘われて、京都大学に新設された大学院の人間・環境学研究科に入る。修士論文のテーマは「底辺下層文学史」。内田魯庵が訳したドストエフスキーの『罪と罰』が、近現代の日本の文学や思想にもたらした影響をたどった。
「池田さんご自身が資料へのこだわりが強烈な研究者で、こちらも負けじと古本屋が目に入ると必ず寄っていました。当時は〈天牛堺書店〉が通学沿線のいくつかの駅構内に出店していて、280円とか580円とかの均一台がしょっちゅう入れ替っていたので、講義に行くふりをしては途中下車して古書店を回るのが日課でした」
 そこで戦前のプロレタリア演劇に関わった大岡欽治の蔵書を見つける。その中には、官憲の目から逃れるためだろう、紙を貼って背表紙のタイトルを隠した本もあったという。
「古書目録もよく送っていただきました。母と2人暮らしの自宅に50冊ぐらい届く月もあったのですが、あとで東京に引っ越すときに転居通知を出さなかったので、母が迷惑して『もう送ってこないように』と連絡した古書店もあったと聞きました(笑)。この場をお借りしてお詫びいたします」
 神保町の〈高橋書店〉の目録にはプロレタリア文学や転向作家が多く載っており、学部時代からよく電話で注文していた。ある年の夏休みに上京したついでに店に寄ったら、狭い通路が本の山だらけで、奥にいた背の高い白髪のおじいさんが日比野志朗『呉淞クリーク』(中央公論社)を差し出した。
「しれっと『ウースンクリークですね』と答えたら、『若いのによく読めたね』と褒めてくれて(笑)。〈中野書店〉の目録で、10年以上探していた山岸藪鴬訳『空中軍艦』(博文館)を見つけたときは嬉しかった。山岸は太宰と親交のあった山岸外史の父で、たしか4万5000円でした。学生時代、大学院時代と、本とレコードだけに金をつぎ込んでいました。大学院時代には日本学術振興会の特別研究員だったのですが、そのころの事務書類を見ると、〈あきつ書店〉〈石神井書林〉〈中野書店〉がずいぶん記載されています(笑)。この時期は、新刊だろうが古本だろうが、買った本はとにかく全部読むことを自分に課していました」

 博士課程に進んで3年目に突発性難聴となり、治らないまま常に耳鳴りに悩まされることになる。
「もうガクッときましたね。耳鳴りで眠れないので睡眠薬とアルコールに依存して、1年ほどは最暗黒時代でした(笑)。とはいえずっとそうしているわけにもいかないと思い直して、大学院は放ったらかして、編集プロダクションに就職しました。作文の通信講座をゼロから立ちあげたり、教育学者の齋藤孝さんの本を編集したりして、2年ほどいましたが、あまりに忙しすぎたんですが、かえってこんなポンコツでも社会で通用するんだと自信がついたというか(笑)」
その後、別の編プロを経て、2007年に東京の水声社に編集者として入社した。同社には7年勤務し、80冊ほどを編集した。そのかたわら、2011年には悪麗之介の筆名でインパクト出版会から『俗臭 織田作之助[初出]作品集』『天変動く 大震災と作家たち』という2冊のアンソロジーを出している。
 2014年に共和国を設立。「池田浩士さんがかつて出していた雑誌が『共和国』だったり、当時お世話になった詩人で翻訳家の管啓次郎さんに『書店という共和国』という素敵なエッセイがあったので」この屋号に決める。下平尾さんが社主である一人だけの出版社だ。文学、芸術、哲学、映画などジャンルを問わず、幅広く出版。これまでに60冊近くを刊行した。
「新しい本をつくるときも、これまでに触れてきた古書の蓄積から考えています」と下平尾さんは云う。「本をつくる出版という行為も、過去に出された無数の本からの引用であることに自覚的でありたい」。10代の頃、新刊で買えない織田作を求めて、古本屋に足を運んだことが思い出される。高見順『いやな感じ』、萩原恭次郎『断片』の復刊や、今年に出た武田麟太郎『蔓延する東京 都市底辺作品集』では、追加収録する資料や下平尾さんが書く解題に、これまで集めて読んできた本から得たものが投入されている。
「武田麟太郎の『暴力』が掲載予定だった『文藝春秋』は、この作品を削除して発行されましたが、『蔓延する東京』の編集中に〈日本の古本屋〉で注文してみたら、届いたのが四半世紀ほど現物を探してきたその無削除版だったんです。こういう偶然や発見があるので、古本と付き合うのはやめられません」

 もうひとつ、古本のおかげだというのが造本のことだ。共和国では創立以来すべての本のデザインを、ブックデザイナーの宗利淳一さんが担当している。
 山家悠平『遊廓のストライキ』の初版では、カバーに遊廓の格子窓のような穴を開けた。これはレッド・ツェッペリンのアルバムの仕掛けを再現したものだという。また、ジョセフ・チャプスキ『収容所のプルースト』をはじめとするシリーズ「境界の文学」の造本は、戦前に刊行されていた「版画荘文庫」に影響を受けているという。下平尾さんが出会ってきた古本やレコードのデザインから得た発想を、宗利さんが具現化していると云える。
「学生時代が長すぎたこともあって世の中に出るのが遅かったし、まして東京に来ても私のことなんて誰も知らないですからね。むしろ気軽に、宗利さんや著者、訳者、友人たちとバンド活動の気分で出版社をやっています。いつまで続くことやら」

 駅から数分の所に自宅兼事務所があるが、自室の押し入れや窓の前にも本の山が出来ており、あるはずの本が出てこないのはしょっちゅうだ。「最近はリビングにも侵食して、足の踏み場もないんですよ」と下平尾さんは云う。そのため、「共和国の本拠で話を聞きたい」という私の願いは、今回も却下された。「共和国の福利厚生施設になってほしい」と下平尾さんが云う居酒屋〈佳辰〉に向かう途中、共和国があるマンションを横目にして、いつかはここにスパイとして潜入したいものだと思うのだった。

共和国
https://www.ed-republica.com/

南陀楼綾繁
1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。各地で開催される多くのブックイベントにも関わる。
「一箱本送り隊」呼びかけ人として、石巻市で本のコミュニティ・スペース「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。本と町と人をつなぐ雑誌『ヒトハコ』(書肆ヒトハコ)編集発行人。著書に『ナンダロウアヤシゲな日々』(無明舎出版)、『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)、『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、共著『本のリストの本』(創元社)などがある。

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