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古本が繋がる時3

古本が繋がる時3

日本古書通信社 樽見博

 

 古泉千樫が長塚節遺品の中から、遺族に懇願して持ち帰った、書き入れのある茂吉歌集『赤光』はその後どうなったのだろうか。千樫の『随縁抄』に、「土岐哀果編『萬葉短歌全集』に就て」という、「アララギ」大正5年2月から4月号に掲載された評論が収録されている。大正4年に東雲堂書店から刊行された善麿(哀果)編纂『萬葉短歌全集』を、千樫が詳しく批評したものだ。千樫は「僕も萬葉集尊重者の一人であり又折角土岐君がいゝ仕事をして呉れたのに対して、自分の気づいたところは遠慮なくいうた方がよいと思ふので、読過の際標をつけておいたものを書き抜いて見ようと思ふ」と書いている。つまり長塚節が『赤光』に注記していったのと同じことをしたのである。千樫が節の書き入れ『赤光』を詳しく紹介したのは大正9年だが、その本は大正4年2月から千樫の手元にあった。

 土岐は千樫の「アララギ」掲載の評を受け、「極めて当然な謙譲の態度をもつて、古泉君の指摘を参考とし」改めて『作者別万葉集』を完成したと、後の随筆集『柚子の種』(大阪屋号書店・昭和4年)に収めた「書入れ本追憶」で触れている。

 この「書入れ本追憶」の存在を知ったのは、改造社の『短歌講座』の月報「短歌研究」第二号(昭和6年11月)に掲載された善麿の「新刊歌集歌書」という連載によってであった。連載の2回目で、千樫の弟子大熊長次郎の『晩縁記』(白帝書房・昭和6年10月)を2頁に亘って書評しているが、その中に千樫の思い出と共に書かれていた。これも偶然に出会った文献である。

『赤光』の行方を考える上で特に注目されるのは、善麿がその一文の中で、ある古本屋の古書目録に「死んだ古泉千樫君の蔵書一切が売りに出て」、その中に蔵者朱書入れのある『萬葉短歌全集』があり、電報を打ち、重ねて手紙も送って入手したと書いていることだ。千樫の蔵書は一括して古書市場に流れたのだ。その目録の刊行は、『柚子の種』が昭和4年11月だから、昭和3年か4年の初めだろう。定価1円20銭のものが売価3円とプレミアがついていたと書き、「僕から謹呈したものであるが、故人がいかにめんみつに、僕の錯誤を調べてくれたかがよくわかる」とも書いている。

 千樫旧蔵書を掲載した古書目録が昭和3年か4年に出た。楽な生活ではなかった千樫は昭和2年8月に亡くなり、没後蔵書が処分され遺族の生活費となったのだろう。そこには例の長塚節書入れの『赤光』もあったのではないか。当時の文学書古書目録だとすれば、渋谷の玄誠堂書店か白山の窪川書店が思い浮かぶ。殊に玄誠堂主芥川徳郎は「アララギ」の歌人でもあった。だが、「日本古書通信」昭和33年8・9月号掲載の「明治文学書の思い出・芥川徳郎氏に聞く」で、本人が目録刊行は昭和6年からと語っている。ならば、白山の窪川書店に違いない。

 九段の千代田図書館には反町茂雄氏と中野三敏氏旧蔵の古書目録が収蔵され、検索も出来る。早速出向いて調べてみた。ところが窪川書店の目録『古本之花』はあるが、その後の『窪川書店古書時報』の該当年分は修理中で見られなかった。がっかりしたが、私は窪川の古書目録は全て『古本之花』なのかと考えていたので早速、図書館階下のロビーで発行者窪川書店で「日本の古本屋」を検索してみると、何と「千樫蔵書本号」が出てきたのである。その内の1件はこの号だけ、別の1件は「千樫蔵書本号」の記載はないが3冊一括で、その中の1冊が添付された写真で当の目録と分かった。いうまでもなく3冊の方(こちらの方が安かった)を早速注文して届いたのが昭和4年3月発行「窪川書店古書目録・千樫蔵書本号」である。窪川書店は戦前、多くの文学者を顧客に持つ専門店であった。昭和3年ころから目録を発行し、「千樫蔵書本号」は臨時特別号で菊半裁横版70頁だ。表紙に与謝野寛『紫』、口絵に日夏耿之介『転身の頌』と河井酔名『青海波』を掲載している。

 「千樫蔵書本号」巻頭に店主窪川精治の挨拶が載り、熱心な読書家・書物愛好家であった千樫に愛顧を受けたこと、その蔵書を扱えるのは名誉であることを書いた上で、この目録が所蔵の全部でなく、300冊あまりが、窪川が評価した上で事前に千樫の友人知人門下に分譲されたこと、それらこそ「垂涎三丈に値ひする書物許り」であったと書かれている。とはいえ目録は1700点掲載。藤村『破戒』5円、荷風『珊瑚集』5円、朔太郎『月の吠える』10円(記載は一〇〇・〇とあり100円とも見えるが誤植、あるいは無削除版か)、犀星『愛の詩集』3円50銭、白秋『白金の独楽』3円など多数の稀覯本が収録されている。因みに『転身の頌』15円、『青海波』2円である。千樫朱書入れの土岐善麿『萬葉短歌全集』も確かに3円で掲載されている。

 前記した稀覯本にも勝るという300冊の実態は分からないが目録を見ていくと、千樫が関係した「アララギ」や「日光」同人たちの主な歌集が未収録である。おそらく千樫に謹呈された歌集類が事前に友人知人門人に分譲されたからであろう。短歌の師伊藤左千夫の著作も親しかった茂吉の歌集類もないのである。残念ながら期待した長塚節書入れ茂吉『赤光』は未掲載だった。この蔵書処分まで千樫の元にあったかどうかも分からない。何故か「日光」同人前田夕暮の本は、献呈署名本も含め多数収録されている。『陰影』『生くる日に』『発生』が署名本だ。因みに千樫は『陰影』『生くる日に』の批評もしている(『随縁抄』収録)。目録に注記はないが、あるいはこの歌集にも書入れがあったかもしれない。

 結局、この「千樫蔵書本号」でも『赤光』の行方は分からなかった。肝心の茂吉自身は何か書いていないのだろうかと考えていた時に、茂吉編の岩波文庫『長塚節歌集』(昭和8年)を見つけた。巻末に「アララギ」25周年記念号に寄稿したものが解説として収録されていた。20頁に及ぶ実に明晰な長塚節短歌論である。その中に「長塚氏が歿して、遺品が届き、小石川の小布施家で通夜をしたとき、古泉君が先づ行き、私が稍おくれて行つた。(略)歌の手帳や、歌集の原稿や、書入れした赤光などとともに持つて帰つたから古泉君の遺品の中に残つてゐる筈である」と書き、また、文庫のための「後記」でも「古泉千樫君に保管を頼んだのであるから古泉君の遺族のところにある筈であるが、このたびそれを参考にすることが出来なかつたのは残念である」と書いている。あからさまには書いていないが、憤懣やるかたなしの思いが伝わる。目録発行以前に関係者に事前販売された時、そのメンバーの中に茂吉もいて、あるいは多くの遺蔵書を購入したのではないかと考えたが違うようである。「アララギ」25周年記念号は昭和8年1月発行、『長塚節歌集』後記の日付は昭和8年7月である。茂吉は昭和4年3月発行の「千樫蔵書本号」を本当に知らなかったのだろうか。やはり謎である。

 千樫は病と貧困の中で早世した。茂吉も善麿もその学識、研究の優れたものであることを認め、『随縁抄』では、折口信夫が、新設学校の教師に千樫を推薦したが、学歴が無いことで不採用になったことに触れている。悲運の歌人と言えるだろう。

 鈴木杏村『古泉千樫聞書』(短歌新聞社・昭和49)に「遺家族」という一節がある。その中に「千樫の死後二年(昭和四年)目に奥さんは、二人の娘と一緒に牛込早稲田に糸綿店を開いたが、昭和八年にその店を閉じて中野に移った」とあった。蔵書処分はその開店資金になったのだろう。目録収載品の平均価格は60銭から70銭くらいで1700点、事前販売分300冊、合計売上1000円から2000円とみれば開店資金の大半ではなかったろうか。『日本詩人全集』5(新潮社・昭和43)の月報に大正14年撮影の千樫の家族写真が掲載されている。妻喜代子、長女葉子、三女佐代子、四女玲子とある。娘さんが4人いたのである。『歌集青牛集』の巻頭歌は、大正7年作の「病児を持ちて三十三首」である。

 病院の明るき室にみとりゐる妻の身なりのあはれまずしも
といった次女の入院を詠った作品がならぶが、写真にいないところを見ると早世されたのだろうか。千樫には子供を詠んだ作品が多く、前田夕暮は「古泉千樫を憶ふ」(『青天祭』昭和18年2月・明治美術研究所)で次の作品を紹介している。

   このあさのあかるきえんにをさな子の遊ぶをみれば春ふけにけり
   おもてにて遊ぶ子供の声きけば夕がたまけてすゞしかるらし

 この家族写真を見て、喜代子夫人は細面の美人であることに驚いた。妻を詠んだ作品も多い。

 千樫は著作よりもむしろ短冊など自筆物をよく目にする。「短歌雑誌」大正15年6月号の表紙裏に日光社による「古泉千樫筆蹟頒布会」の広告が出ている。静養中の千樫支援のためである。短冊一枚5円、半切20円などとある。先の鈴木杏村著書の中の「千樫臨終」には「先生は病床において頒布会未済のことに就いては大変心配して居られる」とあった。揮毫代金を前金で貰っていたのであろう。病歌人の胸中を思うといたたまれないものがある。

 ここまで調べて来て、気になっていた橋本徳寿の大著『アララギ交遊編年稿』三冊(昭和57年~59年、至芸出版社)を買うことにした。第一篇が「古泉千樫私稿」で、A5判592頁2段組というボリュウム。第二篇にも「古泉千樫と原阿佐緒」が収められた千樫資料集ともいうべき労作である。千樫追悼号となった歌誌『青垣』創刊号も収められ、「千樫筆蹟頒布会」の立ち上げから決算まで記録されているが、何故か、窪川書店による蔵書処分については触れられていない。『青垣』創刊号に収められた斎藤茂吉の追悼文の最後が「貧しい生涯に苦しい工面していろいろの書物を買ひ、数千巻の書冊を病床のぐるりに積みながら死んで行つた。このことなども僕にはひどくあはれである。」と締めくくられているのは、何とも印象的である。

 さて、今回の考証の端緒となった古泉千樫著『随縁抄』(改造社・昭和5年)の「長塚節氏の赤光評」に綿密な書入れをしたのは誰だろうか。「アララギ」大正9年1月から4月号に連載された記事と、『赤光』初版とを用いて校合、80頁にも及ぶ長い評論に書き入れをしている。達筆で几帳面、研究者か歌人であろう。この評論が後に何かの本に採録されていれば、そのための校合だろうが、そうとは思えない。刊行後間もない書き入れに思える。欄外に鉛筆で書かれた「土屋文明へ168」は『赤光』該当頁かと思ったが違う。赤インクで「(附記)長塚氏はこの評語を書き入れる時、『赤光』所載の順序によらずに、作歌の年代順に古い方から読んでいかれたやうに思はれる」とも書いている。目的があっての書き入れと考えられる。

 この書き入れ、確証はないけれども、私は千樫の弟子の一人大熊長次郎ではないかと考えている。長次郎は『随縁抄』を釈迢空監督の下で編集、翌年昭和5年12月には「短歌月刊」に「古泉千樫研究資料」を書き、同6年10月には『晩縁記 人と歌叢書古泉千樫』(白帝書房)を刊行、そして昭和7年10月から取り掛かった千樫歌集『青牛集』(改造社)を大正8年2月に刊行している。『青牛集』の長次郎による「巻末小記」には(昭和八年一月十日、病床にて大熊長次郎識)とあるが、『大熊長次郎全歌集』(改造社・昭和8年)の年譜によれば、1月18日に『青牛集』の校正刷りを橋本徳寿に渡し、20日、「衰弱甚だしく到底再び起つ能わざることを自覚」して、睡眠薬「ヂアール」を多量に飲み、21日に絶命している。僅か33歳であった。

 『大熊長次郎全歌集』巻頭に長次郎の短歌色紙と書簡が収録されている。これも写真を添えておこう。毛筆とペン字で比較は難しいが達筆、几帳面なところは似ているようにも思うが、おそらく私の思い込みに過ぎないだろう。因みに大熊長次郎は美男子である。不運な師の後を弟子も追ってしまった形だ。

 長々と田中青牛と古泉千樫のいわば最後の姿を古本を通して追ってきたが、神保町という古本のメッカで働いているという地の利はあるけれども、テーマを持って捜していると、本の方から呼びかけてきてくれるという思いを今回さらに強くした。本当に古本が次から次に繋がっていくのである。これこそ古本漁りの面白さ不思議さである。しかも、「日本の古本屋」の登場が、その出会いの速度を速めてくれたようである。

 
 


窪川書店古書目録「千樫蔵書本号」昭和4年3月

 
 


大熊長次郎筆跡『大熊長次郎全歌集』(改造社・昭和8年6月)口絵より

 
 


古泉千樫家族写真 『アララギ交遊編年考1古泉千樫私稿』(橋本徳寿著)より

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