日本近代文学館 後編 蔵書収集と3人の古本屋 【書庫拝見5】南陀楼綾繁 |
日本近代文学館が駒場公園で開館したのは1967年。私が生まれた年だ。
設立準備会が結成された1962年以降、開館までの経緯を伝えるのが、63年1月に創刊された『日本近代文学館ニュース』だ。1969年4月まで発行された。B5判で、体裁がどことなく『日本古書通信』に似ている。参考にしたのだろうか。 1971年5月創刊の館報『日本近代文学館』(以下、館報)は『ニュース』の後継誌だが、同館の図書資料委員会の活動を伝える一連の発行物を受け継いでもいる。 開館準備のために、出版界や財界、政界に呼びかけたのが高見順、伊藤整ら作家であるのに対して、文学館の基盤となる資料を収集するという、いわば「裏方」を務めたのが、文学研究者たちだった。 1964年4月に設置された図書館委員会(1967年の開館時に「図書資料委員会」に改組)には、久松潜一が委員長、稲垣達郎が副委員長で、小田切進、瀬沼茂樹、紅野敏郎、保昌正夫らが参加。このうち紅野は40代はじめ、保昌は30代と若く、資料収集の中心となっていく。翌月に創刊された手書き・謄写版印刷の『図書館委員会週報』では、紅野・保昌らが東京古書会館、中央線古書会、明治古典会に出かけて古書の収集を行なったことを報告している。同号では委員会の仕事として、個人・出版社への寄贈依頼、古書の蒐集・購入、分類・目録整理、レファレンス・調査を挙げる。 9月発行の第12号でも、図書購入について報告されている。 9月5日にも全集・雑誌の穴を埋める目的で、同様の買い出し部隊が出発し、1200冊を購入している。 これらの報告からは、文学館の資料が揃っていくことへの喜びとともに、「こんな本が買えた!」という古本好きの高揚感が伝わってくる。 小田切進は、文学館開館のために多くの人を動かした高見順が、癌に倒れてから談話筆記で記事になった以外、自分では館についてはまったく書かなかったと述べる。 高見に自分で書くものへのこだわりがあったことはたしかだろうが、それとともに、実際に資料を集め、館を運営していく「裏方」に光を当てたいという気持ちもあったのではないか。 森鷗外文庫と〈時代や〉菰池佐一郎1964年11月、上野図書館内に「日本近代文学館文庫」を開設。はじめて一般が利用できる閲覧室を設けた。 翌年9月には先の『週報』を受け継ぐ形で、『日本近代文学館 図書館委員会月報』を創刊。これも謄写版刷だ。創刊号によれば日本近代文学館文庫の利用者が増加し、30席が満席になって、来館者を断ることもあったという。 同号には「『森鷗外資料』のことなど」という記事も掲載されている。これは古本屋〈時代や〉店主の菰池佐一郎が収集した森鷗外に関するコレクションを購入する交渉を伝えるものだ。 のちに「菰池佐一郎収集 森鷗外文庫」と名付けられるもので、森鷗外の原稿・書簡など特別資料475点、図書412点、雑誌・新聞179種が含まれる。雑誌については、鷗外主宰の『しがらみ草紙』『めさまし草』などのほぼ全号、執筆誌も主要なものは揃い、鷗外の追悼号や特集号まで集められている。 私も書庫で見せてもらったが、当たり前だが、すべてが鷗外に関する本ばかり。書名に出てこなくても、どこかで鷗外に言及されていれば集めている。研究者とは視点が異なる、古本屋ならではの徹底ぶりだと感じた。 菰池は京都生まれで、東京に出て骨董店をはじめ、のちに古本屋に転じた。明治文学ものが主力で、1936年に古書目録『時代や書目』を創刊。森鷗外については「あるお客様が御熱心だった。鷗外さんのものなら何でも持ってこいという、けっこうなお客さんがありました」。敗戦後、その客が集めたものを買い戻したのがきっかけで、鷗外関連書を集めるようになる。1959年に『家蔵 鷗外書目(未定稿)』を刊行し、のちに何度か追録を刊行する(反町茂雄編『紙魚の昔がたり 昭和篇』八木書店)。 集めてきたものを手放す際、菰池は「娘を嫁入らすような気持です、いい嫁入先ですからね」とつぶやいたという(紅野敏郎「図書資料委員会」、館報第13号、1973年5月)。一方、同業の古書店主を前にした『紙魚の昔がたり』の座談では、「その後、鷗外さんのものは、一段も二段も値上がりしました。売るのにはちょっと時期が早すぎて、しまったことをしたなと……(笑い)」と話している。どちらも本音だろう。 このコレクションが上野の日本近代文学館文庫に搬入された際、理事長の伊藤整や図書館委員会のメンバーは喜びの声をあげたという(小田切進「はじめに」、『森鷗外文庫目録』)。 1963年10月に、新宿伊勢丹で開催した「近代文学史展」が大成功を収めて以来、出版社からの寄贈や高見順文庫、野村胡堂文庫などの寄贈はあったが、森鷗外文庫ははじめての大型コレクションだった。森鷗外文庫搬入の頃から、貴重資料寄贈の申し出が増えた。 自転車で本を――〈ペリカン書房〉品川力 『日本近代文学館 図書館委員会月報』創刊号には、もうひとつ見逃せない記事がある。 品川力(つとむ)は本郷にあった古本屋〈ペリカン書房〉の店主。東大赤門前の「落第横丁」にあった店舗には、私も何度か行ったことがある。『古書巡礼』(青英舎)などの著書も愛読している。 新潟県柏崎市生まれで、父は牧場と書店を営む。上京後、1931年に本郷でレストラン〈ペリカン〉を開店。店には織田作之助、太宰治、檀一雄らが集まり、品川は織田の『夫婦善哉』が掲載された同人誌『海風』の発行人も務めた。1939年に古本屋を開く(『本の配達人 品川力とその弟妹』柏崎ふるさと人物館)。 品川は長身でカウボーイハットを愛用し、自転車で都内のどこにでも出かけ、研究者が探している文献を配達した。日本近代文学館に対しても同様だった。 駒場公園に開館した後の1968年9月、先の『月報』は『日本近代文学館 図書・資料委員会ニュース』に代わる。タイプ印刷。70年5月の第11号では「図書資料受入報告」で、保昌正夫は、毎号、品川力からの寄贈の話を出しているが、「やはり文学館へ本が集まってくるのは、品川さんのような尽力が原動力になっていることをおもうと、まず初めに挙げたくなる」と記している。 第14号(1970年11月)にはやはり保昌が、次のように書く。 文学館と古本屋は異なるものだと思う人は多いかもしれないが、少なくとも日本近代文学館には、古本の「親しい手ざわりのようなもの」を感じるセンスを持つ人たちが関わっていたのだと思うと、なんだか嬉しくなる。 本郷から駒場まで、自転車でどれぐらいかかるか知らないが、品川はそうやって本を運んだ。その回数は「1200回以上と聞いています」と、案内してくれた宮西郁実さんは話す。 そうやって寄贈された資料は約1万9000点を超える。そのなかには品川が書誌を作成するために収集したポーやホイットマンの文献が含まれている。 特別資料に入っているものには、織田作之助、串田孫一らが品川に宛てた書簡がある。また、今回閲覧させてもらった『ちぎれ雲』と題する寄せ書き帖には、岡本唐貴、前田河広一郎、吉野秀雄らの名前が見つかった。 品川は83歳で自転車がこげなくなるまで、文学館通いを続けた。寡黙な品川は本を届けると、おいしそうにお茶を飲んで帰って行ったという。その後も館員がペリカン書房まで本を受け取りに行った(『本の配達人』)。 品川がこの世を去ったのは2006年、102歳だった。日本近代文学館とは準備段階から40年に及ぶ付き合いだった。 古本の埃と汗――――〈山王書房〉関口良雄時代やの菰池佐一郎、ペリカン書房の品川力に並んで、同館の恩人ともいえる古書店主が、〈山王書房〉の関口良雄だ。 関口は長野県飯田市生まれ。1953年、大田区で山王書房を開店。私小説作家を愛し、『上林暁文学書目』『尾崎一雄文学書目』を自費で刊行する。没後に出た随筆集『昔日の客』(三茶書房)は、2010年に夏葉社から復刊され、若い世代にも読まれている。 関口は1963年の「近代文学史展」を見に行った際、上林暁の本が一冊しかなかったという不満を、理事の小田切進にぶつける。その翌日もう一度行くと、第一創作集『薔薇盗人』をはじめ、「目のさめる様な最高の美本」が並べられていた。その翌年、関口は池袋にあった館の事務局に、上林と尾崎一雄の著書を持参したと、「『日本近代文学館』の地下室にて」で書いている(『昔日の客』)。このとき寄贈されたのは、上林が45冊、尾崎が47冊だった。 同館の図書館委員会の若手である紅野敏郎と保昌正夫が古本を買い出しに廻る際、山王書房を訪れた。 同じ場面を関口は次のように書く。 私はこの玉の汗が、日本近代文学館の基礎を作るのだと思った」(「汗」、『日本近代文学館ニュース』第5号、1964年11月、『昔日の客』) また、関口は上林暁から受け取った葉書を同館に寄贈している。特別資料に入っているその一枚を閲覧した。1960年8月23日の日付だ。 このとき、まだ二人は面識がない。その後、関口は上林を訪ね、上林が病床に伏してからも励まし続ける。 書庫で再び巡り合う蔵書たち関口は寄贈した資料以外にも、間接的に同館に寄与している。 作家の結城信一が亡くなったあと、本人の原稿や書簡とともに、結城が集めた室生犀星の著書216点などを遺族が寄贈し、「結城信一コレクション」として整理された。 結城は犀星を敬愛し、『室生犀星全集』(新潮社)の書誌の編者も務めた。彼が犀星本を集めるにあたって頼りにしたのが、山王書房だった。 結城と関口について、保昌正夫は、関口良雄文庫が先に入っていることから、「結城さんの犀星コレクションが館に納められたことで、この二人は館の書庫で『久かつを叙し』ているかもしれない。これも因縁というものだろう」と記している(「結城信一の犀星本コレクションなど」、館報第89号、1986年1月、『暮れの本屋めぐり 保昌正夫《文学館》文集』日本近代文学館)。 上林、尾崎の本を寄贈してから10年後、関口ははじめて近代文学館を訪れる。「図書資料部の大久保という人」に案内され、地下にある上林、尾崎の棚の前に立った。 このエッセイは1977年6月の『人間連邦』に発表されたが、その2か月後、がんを患っていた関口は死去する。「また会いに来る」ことはかなわなかったのだ。 なお、このときに関口を案内した「大久保」は大久保乙彦のことで、日比谷図書館を経て、日本近代文学館の職員となった。専門図書館である同館の特徴を生かす分類方法を提案したひとりであったという(紅野敏郎「『館』の歴史のなかで」、『追悼・大久保乙彦』)。大久保は1989年に、文学館からの帰途、交通事故に遭って亡くなった。 同館の館報をめくっていると、理事や寄贈者の追悼記事が多く目につく。開設準備から同館に関わりつづけた保昌正夫は2002年、紅野敏郎は2010年に亡くなる。 そうやって関わった人は消えていっても、同館の書庫のなかでは、さまざまな人たちが残した本や雑誌が再会している。そのことが奇跡のように思える。 今後の同館については、「増えていく資料に対する収蔵スペースの問題と、デジタル化にどう対応していくかが課題ですね」と、宮西さんは話す。 貴重な資料を収めた書庫と静謐な閲覧室がいまもこの場にあるのは、関わった多くの人たちの努力と、本と出会うことへの喜びがあったからだ。この空間をこの先も残していくためにも、積極的に同館を利用していきたい。 1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。著書に『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、『古本マニア採集帖』(皓星社)、編著『中央線小説傑作選』(中公文庫)などがある。 |
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