堺利彦、明治29年~大正13年、書簡18通(封筒有)、葉書6枚、年賀状1枚
初期社会主義者・堺利彦が、妻の兄・堀紫山にあてた手紙一束。堀紫山とは、明治28年頃の大阪での文学仲間で、7歳年上だが気が合った。
●明治29~30年の堺利彦「福岡日日新聞社時代」(美知子との新婚時代でもある)の暮らしぶりをリアルにつたえる長文書簡が6通あり、とても貴重と思われる。
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●「(堀保子の)この前の御手紙の不心得の事申やったらしに大そうのおこって参り兄上に如何なる事申参ったか知らねども 私において母に不孝の事なぞいたした覚へなし 一、葬式の時一三十円出しむし物の時七円出した それをうそだと思ひなら兄上に聞合せろと大そうのいばった手紙 相かわらずの我侭はなほらぬ事存じ候」(堺美知子★、明治29年12月6日)。
●元旦もおしめほしたる我家かな
猫二疋縁に犬ニ並ぶ初日かな (明治37年元旦)
●「いつもながら御懇情多謝、僕もまだ五十三歳で、死ぬるには少し早いと思ってゐる。(中略)敢て天下を取ろうといふ個人的の野心はないが、団体として階級としての野心はある、老生の一死が多少の刺激となり得るならば、それも亦た光栄であり満足である。(中略)
真柄は多少の霜やけの外、健康に申分なし、「倅小次郎の初陣」と云ったような感じがないでもない。(中略)保子先生近来とんと顔を見せず、何をしてゐるのやら。蹴月にはチョイチョイあふ、眠柳は死んだ、「半黄泉」の感が多い」(堺利彦★大正11年1月25日)。
●堺利彦の一人娘の真柄は、大正10年秋に軍隊赤化事件で、仲宗根貞代とともに禁錮4ヶ月で東京監獄に入獄する。女性政治犯の入獄では福田英子、管野すが、高津多代子につぐ4番目だったという。
●堀紫山曰く。「私も一人しかいない姪の真柄には困ってゐる、親父が附いてゐて為せる事だから苦情も言へぬが、若い人達は余まり真柄を唆てられぬ方が好いと思う。元来社会主義者の娘が同じ社会主義者では平凡過ぎて面白味がない。」(堀紫山「社会主義の親戚」★『東京朝日新聞』大正10年5月22日)。
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