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「流木記」を語る――「書く」という贖罪について

「流木記」を語る――「書く」という贖罪について

窪島誠一郎

 私はこのたび「流木記――ある美術館主の八十年」(白水社)という本を出した。副題が示す通り、この本は太平洋戦争開戦の直前に生まれた私が、戦後の混乱期から敗戦の対価としての高度経済成長の波にのり、ほとんど阿鼻叫喚というしかなかった経済戦争の「昭和」をいかにして生きたかという記録であり、高校卒業後にイチかバチかで開いたスナック商売が大当りして貧乏生活から脱出し、やがて絵画収集の趣味が高じて信州上田市の郊外に、大正昭和期の夭折画家や学徒出陣で出征して志半ばで戦場のツユと消えた戦没画学生たちの遺作をあつめた私設美術館をつくるまでの足跡を辿った、自叙伝とも私小説ともつかぬサクセスストーリー(?)なのだが、これまで百余冊の本を上梓しながら鳴かず飛ばずだった半アマチュア作家の私の作品としては珍しく、あちこちの書評欄で取り上げられたりして(このメルマガも然り)、大いに気を良くしているところなのである。

 だが、この本が読者の関心を惹いたのは、太平洋戦争開戦から八十年を生きた私の波瀾万丈といってもいい人生(たとえば戦時中二歳九日で生父母と離別し、空襲で焼け出された貧しい靴修理職人夫婦のもとで育てられ、その後開業した水商売が当って大儲けしたこととか、戦後三十余年経って再会した父親が何と「飢餓海峡」や「越前竹人形」などのベストセラーで知られる直木賞作家の水上勉氏であったこととか)、あるいはスナック商売のかたわら没頭した絵画収集によって、まがりなりにも一応の自己形成をとげてゆく過程というか、あっちにぶつかりこっちにぶつかりしながら、「昭和」という時代の濁流にのまれて生きた「流木」そのものの運命への共感からきていることも確かな気がするのだが、同時にもう一つ、この物語のタテ軸をなす形で語られている数々の病との戦い、八十歳という老齢にいたった今も、五指をこえる大病をかかえた人間であることへの読者の同情があるようにも思われる。

 七十四歳でおそわれた突然のクモ膜下出血、七十六歳での陰茎ガン(二百万人に一人という確率で発症するきわめて珍しいガンだそうだ)、その翌年に見舞われた間質性肺炎、心臓動脈瘤、さらに三十数年間悩まされつづけているアトピーとならんで根治困難といわれる皮膚病の尋常性乾癬との戦い等々、のりこえてきたその「病歴」のすさまじさにも読者は圧倒されるにちがいない。「流木記」をめくった読者は、筆者である私の奇縁と偶然、不条理と必然のあいだをゆれ動いた八十年に興味をもつと同時に、そうした数多くの病をくぐりぬけてきた強運ぶりにも瞠目するにちがいないのである。

 「流木記」の冒頭は、「二〇一八年八月十日、尾島真一郎はペニスをうしなった」という一行から書き起こされている。
 これは私が(文中では尾島真一郎という仮名を使っているが)、東京慈恵会医科大学附属病院泌尿器科において、担当医師から「陰茎ガン」を宣告されるシーンだが、前段で紹介したように、「陰茎ガン」というのは何百万人に一人というまるでジャンボ宝くじ並みの確率で発症する部位のガンだそうで、私が七十六歳九ヶ月をもって永年慣れ親しんだ己が性器の切除手術をうけるという衝撃的な文章ではじまるのである。その後この本のあちこちにペニスをうしなったあとの私の生活に生じた身体的不具合や、(若い頃ほどではないにしても)日夜性的妄想にかられるたび、悶々烈々とのたうつ竿ナシ男の慨嘆が語られていて切ないのだ。現在信州上田で営む美術館「無言館の運営の苦労や、経済難のために愛蔵していたコレクションを手放さねばならなくなった孤独や喪失感も切々と訴えられているのだが、それより何より老齢の主人公をおそったクモ膜下出血や肺炎、心臓病などの死地からの奇跡的な生還、その「病歴」のトドメをさすようにおそってきた「陰茎ガン」によって、ついにペニスまで喪失するにいたった八十男の哀れが読者の憐憫をさそってやまないのである。

 しかし、この不幸な病との戦いを出来るかぎり包みかくさず、ありのままに綴った「流木記」は、けっして老年にして大事なチンポをうしなった筆者の絶望を語るために書かれた本ではない。私が一番書きたかったのは、そうした幾多の病におそわれつつ戦前、戦中、戦後の時代の激変にもてあそばれ、いかに敗戦(日本人戦死者三百数万人!)の見返りとしての経済成長に自分が救われ、八十歳の現在まで生きのびることができたかという事実なのだった。「ことによると、戦没画学生の美術館をつくったのは、そうした自らにあたえられた時代の恩恵(?)に対するザンゲの気持ちからだったのではないのか」「あの戦争に対して何一つ自省や悔悟の態度をしめすことなく、ただひたすら一億総参加の物欲レースに加わってきた自身の罪滅しのためにつくった美術館が無言館ではなかったのか」

 うまく言えぬが、ことによると己がペニスもろとも行き場をうしない、昭和、平成、令和の袋小路へと追いこまれた一本の「流木」の末路を書くことこそが、この本にあたえられた贖罪の一つではなかったかと自問しているところなのである。

 
 
 
 


『流木記 ある美術館主の80年』 窪島誠一郎 著
白水社刊
四六判 258ページ
定価 2,400円+税
978-4-560-09894-3
好評発売中!
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b600629.html

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