敗北を克服する松廼家露八(まつのやろはち)の力加減 『彰義隊、敗れて末のたいこもち—明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』目時美穂 |
いまから百数十年まえ。明治維新は、幕府をたおした薩長を中心とした討幕勢力という勝者と、破れた旧幕府側という敗者を生みだした。本書では敗者の側におかれた、ひとりの男の生涯を追う。男の名を土肥庄次郎(のちの松廼家露八)という。
彼は天保4年、御三卿の一家、一橋家の家臣の家の跡取りとして生まれ、昔ながらの武士気質の気まじめな父の薫陶をうけて育った。が、模範的な武士にはならず、長じてからは酒と女に耽溺し、悪友とつるんで遊びまわるようになり、廃嫡された。さらには、吉原にいすわって、ついに武士を捨てて幇間になってしまった。そして、息子が幇間をしていることを知って激怒した父から逃れて、西国に逐電し、以後2年間、気ままな放浪生活を送った。 そんな「軟派」な生き方をしていたにもかかわらず、幕府滅亡に際しては、ただ座して敗北を見送ることをよしとせず、庄次郎は、四人の弟(土肥家の男子全員)を引き連れて、彰義隊にくわわり上野にたてこもって戦い、戦友とみずからの血と汗にまみれた。箱館が陥落し、戊辰戦争がおわったとき、庄次郎は37歳であった。 庄次郎こと露八に、明治という勝者の世を、敗者として生きる人生がはじまった。 国破れてのち、露八は古巣の吉原で幇間をはじめた。だが、べつに、かつての敵、勝者に頭をさげるというマゾヒズム的な行動原理で幇間になったのではない。生活のため、生きていくために、身についた技術をいかしたのにすぎない。その証拠に、明治9年頃には妻のお徳とともに静岡に移住し、さまざまな商売の起業をして生活を立てようと奮闘しているのだ。しかし商売というのは、思いつきだけで簡単にできるものではない。 結局失敗を繰り返して、東京にもどり、すでに56歳という当時では老年ともいえる年齢になっていた露八は、若者ばやりの吉原で、同業者や御茶屋に迷惑がられながらも苦労して幇間に復帰した。 露八が松廼家の屋号を名乗るようになったのはこのときからだ(それ以前は荻江)。彼の名物幇間としての名声もこのときからはじまったといっていい。これまでの吉原や静岡でのこま切れの芸歴は、もちろん露八にとって顧客の人脈作りなどには益したかもしれないが、もし、このあと、彼が幇間として名をなすことがなかったならば、彼の存在は時代のなかに埋没し、風化して、記録にも記憶にも残ることはなかっただろう。 しかし、人生の晩年にさしかかっていたこの老幇間が、いきのいい若手を御していちばん人気の幇間のひとりとなり得たのはなぜだろう。客に喜ばれたという仁王や狸をまねた芸だけでは、仮にそれがいくらすぐれていたとしても突出するのはむずかしかったのではないだろうか。 露八の魅力は、芸よりも人格、その存在自体にあったにちがいない。かつての彰義隊の同志、本多晋は、客に媚びを売るでも、へつらうでもなく、幇間としての芸を売って堂々と生きる露八の姿を「洒々落々」といった。ものごとにこだわらないさっぱりした性格のことをいう。若年の露八の行動を見るに、江戸っ子らしい一本気な直情さは見受けられるが、直情的であることと、ものごとにこだわらないということはほぼ逆である。しかし、一本気な直情さからよけいな熱をとれば、腹に一物も持たないまっさらなものが残る。苦労の歳月は、彼からよけいな灰汁をぬき、その人格を磨きあげたのである。 日本には「水に流す」という言葉がある。よい言葉だと思う。「水に流す」ことができなければ、100年でも1000年でも憎しみはそこにわだかまることになる。露八は、明治の世を生き抜くために、敗者として抱いていた様々な感情を水に流したのだろう。だが、もちろん流せないものもある。水を堰いて残ったものは、それなしでは自分が成り立たないほどのこだわり、その人の存在をかけた矜恃とでもいうべきものだ。露八が、けして水に流すことができなかったもの、それは毒舌・皮肉な性格、毎年かかさぬ亡き戦友たちへの追悼、彰義隊の生き残りとしてのふるまい、武人としておもかげなどとして残り、それが、お座敷の遊客をも惹きつけた彼の人間としての魅力のひとつであっただろうことはいうまでもない。 敗者復活の手段は無数にある。だが、敗者の立場にこだわってなされたそれに、あまり幸福そうな成功例を知らない。敗者が敗者であることを手放したとき、精神の自在さを得る。大切なものは胸に秘め、人生をしばるもろもろの感情は水に流した松廼家露八のしなやかで懸命な生き様は、勝者、敗者にかかわらず、人が生きるためのちょうどよい力加減を教えてくれるように思うのだ。 ![]() 『彰義隊、敗れて末のたいこもち—明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』 文学通信刊 目時美穂著 税込価格:2,750円 ISBNコード:9784867660201 好評発売中!! https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-86766-020-1.html |
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