「矢橋丈吉を探して 『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を読む」戸田桂太 |
矢橋丈吉という、ほぼ無名に近い詩人の著書『自伝叙事詩 黒旗のもとに』は本人が亡くなる半年前、1964年1月に自ら経営していた「組合書店」から出版された。
自伝叙事詩とある通り、自伝的な要素の強い詩集である。そして、この本が矢橋丈吉の唯一の著書だ。 矢橋はアナキストだった。表題にある〈黒旗のもとに〉という一語に、この詩人の胸の奥底に秘められていたはずのアナキズムの小さな炎が見え隠れしている。 私は矢橋の著書の記述を通じて、この詩人の“ほぼ無名”の人生を辿り、そこに分け入ってみたいと考えた。というのは、この詩人の生涯は、どこか一筋縄では捉えきれず、謎のような部分が沢山ある。彼の詩の行間に潜んでいる謎の正体に迫ろうというのだ。 1963(昭和38)年の暮れ、矢橋は自身3度目だかの脳出血の発作に襲われ、快癒しないまま、1964年5月28日に亡くなった。 唯一の著書『自伝叙事詩 黒旗のもとに』が出版されたのは著者の入院闘病中のことであった。 1903(明治36)年7月の生まれだから、60年11か月の生涯だったが、亡くなってから現在までの年月も矢橋の生きた時間とほぼ同じ、60年が経ったことになる。そして2023年の今年は生誕120年に当たる。 しかし、生誕120年を期して、この本を書こうと考えたわけではなく、執筆の途中でそれを意識したこともなかったが、年譜を書く段になって気がついた。 それで、興味半分ながら、1903年生まれの著名人を検索して調べると、森茉莉、棟方志功、草野心平、窪川鶴次郎、小津安二郎、山本周五郎、サトウハチロー、林芙美子、小林多喜二、小野十三郎……多くの著名人に混ざって、他にも、たくさんの芸術家の名前が並んでいる。前後の年に比較して、作家や詩人が多いような気がするが、どうだろう。 だが、そこに矢橋丈吉の名前はなかった。やはり“ほぼ無名に近い詩人”である。大正、昭和の文学史や文芸評論でも、矢橋丈吉についての記述は非常に少ない。 寺島珠雄が1989年に『季刊論争』誌に連載した「單騎の人 矢橋丈吉ノート上、中、下」が唯一というべき矢橋丈吉論だが、町田市立国際版画美術館学芸員 滝沢恭司氏による労作『矢橋丈吉年譜考』(筑波大学芸術学系五十殿研究室『現代芸術研究』2003/5)と「『マヴォ』の版画について」(町田市立国際版画美術館 紀要第8号)の2編も矢橋研究に必須の論考である。また、大正期新興美術運動における矢橋像に関して、五十殿利治氏の『大正期新興美術運動の研究』(スカイドアー 1995)から多くの示唆を得た。 ほぼ無名、とはいえ大正から昭和初期の文芸誌や美術の専門誌を丹念に読めば、詩人、作家、美術家としての矢橋の活躍はなかなかのものだといえる。 村山知義を中心とした大正末期の新興芸術運動の機関誌『マヴォ』では、矢橋公麿の名前で多くのリノリュウム版画や詩作品、戯曲やエッセイを発表している。 昭和になると、本名の矢橋丈吉の名で、アナキストが結集した観のある文芸誌『文藝解放』に参加し、自ら主宰した詩誌『單騎』を発行する。少し年長のアナ系文学者の雑誌『矛盾』への寄稿もあり、反権力をテーマにした掌編小説の連作も発表している。 美術の分野でも、友人の小野十三郎、岡本潤の最初の詩集の装幀や『黒色文藝』誌の表紙デザインなどが高い評価を得たという。 こうした仕事の成果は当時の詩誌や文芸誌、同人誌などで確認できるが、丈吉自身の日常生活や心情を伝えているのは『自伝叙事詩 黒旗のもとで』の記述である。 明治末期、矢橋家の一家6人は北海道雨竜郡の開拓地に入植した。その時丈吉2歳。 その後、開拓地の小作農家の苦労が文語体・韻文調の記述で語られるが、村の共同体での経験が丈吉の人間形成に大きな影響を与えたことが想像できる。 しかし生活は厳しく、彼は17歳の時、開拓地から遁走するように東京へ出た。 これ以降、「自伝叙事詩」では丈吉が大正期の新興美術に傾斜し、アナキズムに接近していく日々が語られる。「マヴォ」の仲間や詩人たちとの交友、辻潤や尾形亀之助らとの不思議なつながりも描写される。 恋愛や失恋もあり、仙台への徒歩旅行の顛末に多くの頁が費やされている。結婚して家庭を持ち、女性雑誌編集長での活躍や戦後の出版社経営も含めて、『自伝叙事詩』が語る彼の後半生は波乱に満ちている。 前述のとおり、この詩人の正体はつかみにくく、辻褄の合わない記述や謎のような空白にも惑わされる。 しかし、それらの不可解を乗り越えて、私は矢橋丈吉というアナキスト詩人を発見したいと思ったのだ。「矢橋丈吉を探して」という題名の所以である。 ![]() 『矢橋丈吉を探して『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を読む』 文生書院刊 戸田桂太著 税込価格:3.520円 ISBNコード:978-4-89253-655-7 好評発売中! 「矢橋丈吉を探して 『自伝叙事詩 黒旗のもとに』を読む」 |
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