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懐かしき古書店主たちの談話 第6回

懐かしき古書店主たちの談話 第6回

日本古書通信社 樽見博

 昭和60年10月に、東京都古書籍商業協同組合東部支部二十周年を記念した『下町古本屋の生活と歴史』(発行者・鈴木明弘・荒川区鈴木書店)が刊行された。編集は青木正美、小林
静生、中山信行の三氏が担当した。稲垣書店の中山さんが「編集後記」で「読めるものにするためには具体的な生活ぶりとホンネの意見を、残るものとするためには歴史的資料の記録化を目指した。」と書いている。
 

 
その中山さんが「東部支部に三十周年は来るか」を書いているが、東部古書会館が平成22年に閉鎖された今となっては貴重な記念誌である。この記念誌と時を合わせるように、昭和61年
1月『古本屋―その生活・趣味・研究』という表紙、本文用紙とも記念誌と同じ体裁の雑誌が創刊された。編集・発行人は青木正美、小林静生、石尾光之祐で、青木文庫発行となっている。当初から10号までと決め、平成2年9月で終刊した。

執筆者は基本古書店主で三橋猛雄、出久根達郎、中川賢典、花井敏夫、飯田淳次、反町茂雄、山田朝一、中山信行、藤井正、尾上政太郎、奥平晃一、相川章太郎、斎藤孝夫、夏目順、永島富士雄、山岡吉松、八鍬光晴、森井健一、品川力、杉野宏、井上昭直、小梛精以知、後藤憲二、岩森亀一、蝦名則、田中正人、吉田文夫、小野敏之、森川忠信、八木福次郎、川野寿一。
 
第九号(平成元年)は「弘文荘・反町茂雄米寿記念特集」で、八木敏夫、佐藤毅、井上
周一郎、梶原正弘、八木正自の各氏などが執筆している。既に数名を除いて鬼籍に入っておられる。古本屋の書いた本がやたら刊行された時期があったが、それに先行した雑誌で当業界にとって貴重な記録である。

『古本屋』創刊号が完成したとき、小林さんが八木福次郎、私、折付桂子を誘って八木の行きつけの居酒屋赤柿で小さなお祝いを開いた。小林さんは茨城県筑波山麓の出身で、同じく筑波山西麓の下館在住の私を何かと目にかけてくれた。雑誌が完成し高揚した小林さんは「樽見、これを読んでどう思った」と聞いてきた。私はその日もらったばかりで殆ど読んでいなかったが「古本屋自身が古本屋の生活を記録する雑誌で貴重だと思います」と当たり障りのない返事をしたら「違うんだ」と言って後は何も言わなかった。
 
創刊号の「編集後記」で小林さんは「古書を扱うことを生業とする我々古本屋には、又特殊な人生体験を味わう機会も多くある。それらの生活記録を生のまゝで綴り、世間の方々に古本屋の実態を理解して頂こうというのが私達の主眼である。」と書いている。あの時どう答えれば満足してくれたのか、今改めてその後小林さんが刊行した『山の本屋の日記』(昭和63年)『山の本屋の手帖』(一九九六)を読んで見ると、単なる古本屋生活の記録ではなく文学的に昇華された作品を掲載する雑誌を目指していたのかもしれないと思う。

その後も小林さんは酒席の時など「樽見、お前に話したいことがあるんだ」と何度も言うのだが結局何も語らなかった。恐らく「古通も継続が難しくなって年齢的にも八木さんも辛い。続けているのはお前たちの生活を考えてだろう。お前から終刊にしようと言うべきではないか」ということではなかったかと思う。小林さんと八木は『東京古書組合五十年史』編纂を通して親しくなり、ことに八木の晩年十年間ほどは明治古典会のある金曜日には必ず、会館即売会に来る内藤健二さんと三人で喫茶店に行きおしゃべりすることが習いになっていた。ただ、私も八木の苦悩は痛いほど分かっていたが、私がそう言って終刊が決まるほど簡単なものではない。小林さんが言い淀む訳もその辺に理由があったのだろう。小林さんは本当に晩年の八木に尽くしてくれた方で有り難かった。

『古本屋』発行人の一人石尾光之祐さんの屋号は江東文庫で、私が入社した昭和50年代の古書目録掲載店の常連の一軒だった。古書会館で出会うと、座っていた席から立ってニコニコしながら若造の私にも丁寧な挨拶をされた。表面極めて慇懃丁寧だけれど心に何か顰めた方であることはすぐに分かる。石尾さんの文才を青木、小林両氏は高く買っていた。青木さんの初期の本は石尾さんの徹底的な指導を受けたらしい。石尾さんは創刊号以来、「日の丸堂・その他」「麒麟の会のこと」「捕物帳の周囲」「古本屋の客」「なみだの通販」「はりかい・しうりいたし〼」「夜明けのラーメン」「ひとそれぞれ」「デパート古本市(顚)「訛伝・小沢行二」を書いている。大学時代に文学同人誌に参加していたが、晩年執筆熱が再燃したようだった。

昭和63年に『無邪気な季節』という青春記を青木、小林両氏の勧めで刊行したが、限定30部だった。私は青木さんから一冊頂いたが、残念ながらどこかに埋もれて出てこない。学生時代の作品だろうか。「なみだの通販」は「日本古書通信」にも関する内容で「掲載料が三万となりやめた」とある。当時は古書目録掲載希望店が多く、足元を見たわけではないが、壁を少し高くして固定化した掲載店を制限し新しい古書店の掲載を呼び込めるかなと考えていた。掲載希望者が殆どいなくなった今、忸怩たる思いである。(平成9年没・75歳)

『古本屋』の執筆者の内、「日本古書通信」でも取り上げるとよいだろうと青木さんが世田谷の由縁堂書店相川章太郎さんを紹介してくれた。相川さんは第三号に「想えば「こんぺうる」」という12頁に及ぶいわば青春記を寄稿している。古本屋を始めた経緯も書かれているが、主に好きだった歌舞伎や寄席との関わりが詳しく回想され、中でも芸術祭男と称された湯浅喜久治というプロデュサーとのかかわりを描いて秀逸な内容の回想記である。趣味などという域ではなく、相川さんはそのまま芸能の世界でも生きてゆけたのではないだろうか。それとも、悲劇的な結末に至ってしまった湯浅喜久治のようにならずに済み、生涯歌舞伎や寄席を趣味に出来たことは、古本屋として堅実な人生を送られたからだろうか。

『古本屋』第三号に、相川さんが『古書月報』に書かれた「演劇映画ちょっと本の話」と
「来た道・よこ道」(特集・私の来た道、行道5)のコピーが挟んである。平成15年10月号に相川さんにインタビューして纏めた「歌舞伎が好きで」を掲載した折に参考にしたものだろう。その年1月号から「古本屋の話」を連載していて相川さんはその10回目だった。世田谷池ノ上のお店に伺いお話を伺ったのだが、今当時の記事を読み直すと人名、事項、日時などが具体的で事前によく準備されていたことがよくわかる。『古本屋』の回想記に出てくる黒美寿会会報「黒すみ」や「ほんもく」「寄席風流」などの趣味誌を安藤鶴夫などと共に刊行継続させた几帳面さが、こういう場合にも示されている。

それと生まれは船橋だが小学校は四谷第五小学校で東京人らしい歯切れの良い話し方、それと、よく東京の水で洗ったようなというが、色白で肌や白髪に艶があり、いかにも江戸っ子の風情である。本郷の木内書店の木内民夫さんや、戦後、銀座近藤書店内に秦川堂を開いた永森慶二さん(後に大塚,下谷、神保町に移転。故秦川堂永森譲さんの父上)など、以前はきれいな容姿でべらんめー口調の古本屋さんを見かけたが、相川さんは「べらんめー」ではなかったが、そんな東京の粋な古本屋のお一人だったと思う。

「歌舞伎が好きで」の前半は『古本屋』の回想記をなぞるものだが、後半は古本屋、特に戦後の古書市場再興や即売会の運営、南部支部創設、南部古書会館の建設について話されている。


「東京古書組合は十支部に分かれていましたが(略)私の所属していた第五支部は渋谷・世田谷・目黒を範囲とし、港・中央の第四、品川・大田の第六支部と合併したわけです。その合併の際、私は第五支部の支部長を務めており、第四支部が笹間さん、第六支部は柳川さんでした。三人協力して努力いたしましたが、その最終的なまとめには小川書店田中さんが尽力され、又、南部古書会館の取得については、押鐘書店が取引先の銀行から物件の情報を入手し、それを文雅堂高橋さん、八起書房小島さんが精力的に運動し実現されたのです。」と話されている。

この間の詳しい経緯は、現在、『南部支部報』の第56号(二〇二二年三月)から連載されている「相川章太郎日記抄」(一九六七~)で詳しく知ることが出来る。相川さんは組合の月報に、白樺書院大輪さん、小川書店田中さん、石黒書店の石黒さん、江口書店の江口さん、富岡書店の富岡さんの追悼文を書いたと話されている。古本屋にとって古書市場と、それを安定的に開催できる会館がいかに大切であり、心の支えであるかを改めて知らされると共に、自分の商売を犠牲にしながら組合に貢献された方々のあったことを忘れてはいけないと思う。

(「全古書連ニュース」2024年3月10日 第499号より転載)

※当連載は隔月連載です

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