懐かしき古書店主たちの談話 第8回
日本古書通信社 樽見博
『日本古書通信』の魅力は後半の古書目録欄にあると、ずっと言われてきた。編集者としては前半の記事に神経も労力も使っているわけで、八木福次郎はよく「目録で売れていると言われるのは編集者として恥なんだ」と言っていた。長い読者で執筆者でもあった辞書研究家で収集家の惣郷正明さんが「古書通信編集部の人数は少ないけれど、裏に大勢の人々がかかわって
出来ているんだよ」と話してくださったことがある。大勢の人々とは古書目録を作り掲載料を払ってくれる古書店のことを指している。その通りだったと思う。
仕事に慣れてきた三十代になって、雑誌は季節の美味しい様々な料理を盛る器。だから
大きくて深みもある大皿が良い雑誌で、盛り付けをするのが編集者の仕事だろうと思うようになった。しかしそんな悠長なことを考えていたのは、目録掲載希望者が多かった時代である。
掲載軒数が四十店から三十店、二十店と徐々に減り、十店を割り現在のように三、四店と
なっては、必死に記事の充実を図るしかないが、広告料が入らない以上、編集にお金が使えない。殆ど原稿料なし僅かな謝礼のみで執筆をお願いするのは辛いのだが、それでも喜んで
書いて下さる方が多いのは本当に有難いことで、それがもう十年以上も続いている。
編集の仕事の外に、読者やその関係者からの依頼で蔵書処分の仕事も続けてきた。蔵書が
膨大であれば、若い古本屋さんたちの力を借りることになる。先日もエレベーター無しの公団住宅五階から七千冊以上の蔵書を処分する依頼があり、二日間で十人分のお手伝いをお願いした。彼らのスムーズで無駄のない仕事ぶりに感心すると共に、実に楽しそうに作業されているのが印象的であった。膨大な古書の山に対すると自然にファイトが湧いてくる、それが古本屋の性なのだろう。
今回も前書きが長くなったが、平成二(一九九〇)年に「往信・返信」と題して親しい間柄の古本屋さんの往復書簡を連載したことがある。大阪の浪速書林 梶原正弘さんと札幌・
弘南堂書店 高木庄治さん、本郷の森井書店 森井健一さんと福岡・葦書房 宮徹男さん、京都・キクオ書店 前田司さんと神田・八木書店 八木壮一、旭川・尚古堂 金坂吉晃さんと横浜・
一艸堂石田書店 石田友三さん、練馬・石神井書林 内堀弘さんと神戸・黒木書店 黒木正男さん、神田・吾八書房 今村秀太郎さんと大阪・リーチ書店 廣岡利一さん、東京・安土堂書店
八木正自さんと英国・Cフランクリン書店 コリン・フランクリンさん、神田・玉英堂書店
斎藤孝夫さんと熊本・舒文堂河島書店 河島一夫さんの九回である。
中で玉英堂の斎藤孝夫さんが次のように語っているのが注目される。
「このごろ少し壁にぶつかっています。一生懸命働いて、売買の取引高が次第に大きくなってきて、果たして自分に残るものは何なのか。今度の決算で信じられない程の税金を払いました。まるで自分と店の人の給料と、そして税金のために苦労して働いているような気がしました。税金を払うつもりで宣伝費をもっと掛けようか・・・などと真剣に考えています。
せっかく古典籍の重要性・価値を知り、魅力を感じ始めたのですから、世界に誇りうるこの
貴重な文化財をもっともっと世間の方々に知って貰うことが、これからの私たちの重要な使命だと思います。(略)商売として古書業界は、大きく発展する業界とは思えませんが、好きな書物を扱って生活できるのですから、素晴らしい仕事に恵まれた僕らは、幸せなのかもしれませんね」
同じことを直接私に話されたこともあった。古本屋としての実力はもちろん、本当に正直で真っすぐな方であった。この連載で取り上げた中野書店 中野智之さんと孝夫さん二人の早世は残念極まりないことであった(平成26年没71歳)。
往復書簡の中でも異彩は尚古堂金坂さんと、一艸堂の石田さんである。二人とも一際個性的で業界ではいわば土地のボス的な存在、文学的なところも共通していた。
尚古堂さんは「日本古書通信」目録欄の常連で、送られてくる原稿の文字は豪快で踊るような達筆、時々判読できない文字があり電話で確かめたこともある。しばらくして金坂さんが
宮柊二に師事する歌人であると知った。往復書簡で意外なことを書いている。
「去る二月十七日夕方六時からの通夜に出かけるために、その日の朝の便で旭川空港を飛び
立ちました。翌日は葬儀。東京中野にお住いの平沢さんでした。中央線沿線の組合の方々は、彼のことを米さん、米さんという愛称でよんで、その実直な人柄を愛し親しんで、通夜や葬儀の折も彼の生前の人徳をたたえては悲しんでおられました。平沢さん行年六十五歳。
信州の田舎から上京し、街の片隅に古書を商いながら誠実に生きてきた、名もない一庶民の
生涯の最後に、私はどうしても参列したかった。いいしれぬおもいを胸にいだきながら野辺の送りをしてきました。同業の方々、何人かは翌十九日の中央市会に当然出席するものと
おもっておられただろうが、私は失礼致しました。ずっとホテルの一室にこもって彼のことをおもっていたかったからでございます」
平沢書店さんと金坂さんがどんな関係であったかは分からないが、古本屋としての生き方に共通するものがあったのだろう。平沢さんは店を持たず、セドリと即売会を主としていた。
当時の組合員名簿を見たら、取扱いは民俗資料とある。他の往復書簡に頻出する反町茂雄さんなどの話題に金坂さんとしては違和感があったに違いない。平沢さんを私は直接知らないが
古書会館即売会の人気店の御一人だったと思う。裏見返しに「平沢書店」のラベルが貼られた本が、私の書棚にも何冊かはあるはずである。
一九九五年終戦五十年を機に「古本屋の戦後」という連載を企画した。金坂さんにはその
六回目にご寄稿頂いた。その回想によれば、昭和三十年末、東京での生活に尾羽うち枯らして奥様の故郷・北海道岩見沢に移住、偶然目に入った某生命保険の外務員募集に応じて炭鉱を
中心に見事な成績を上げる。やがて幹部への期待がかかったところで、内勤サラリーマンに
なるのを避けて滝川市で古本屋を始める。
やがて旭川に移るが、その間にも人脈を広げ市立図書館建設や、国学院北海道短大の誘致
設立、さまざまな文化グールプの創設運営にも係り、いわば土地の名士になっていく様子が
さらっと書かれている。北海道古書籍組合連合会の設立にも尽力、この年の大市会を旭川で
開催している。
想像するに金坂さんは天性のオルガナイザーであり、東京で尾羽うち枯らした活動も、その
卓越した才と無関係ではないような気がする。平沢書店さんとの関係もその頃からのものだろうか、古本屋を選んだのも平沢さんの影響だったのではないだろうか。
今手元に金坂さんの第一歌集『晨』がある。昭和五十三年十一月の刊行。私の入社は昭和
五十四年一月だったから、その直前である。昭和五十八年に『凍』、平成元年に『昏』を出されている。『凍』(確か「しばれ」と読む)発行の折だったかその前に来社され、これから
宮柊二先生の所に行く。先生はそんなに急いで歌集を出すべきでないとおっしゃられるのだが、無理にお願いするのだ、と話された記憶がある。『晨』にも宮柊二を詠んだ作品が多い。
古本屋とはよろしきものならむ柊二の原稿を市にて購へり
白秋の本の扉に宮柊二書かれしはこれわすれな草の歌
売りに来し古書に柊二の歌集あり祖父が読みしと少年答ふ
他の歌集に、ある日店に来て書棚を眺める宮柊二の幻影をみたというような作品もあった。
雑本の類なれども売り払ふ人のさびしさ購ひつつ思ふ
雪まみれになり来し学生の欲りし本値切られながら我は微笑む
なども金坂さんの古本屋としての生き方が感じられる作品である。
金坂さんは地元を愛し、街の古本屋であり続けることに矜持を持っていたのだろう。
連載「往信・返信」の金坂さんの相手は、横浜の一艸堂石田書店の石田友三さんである。
この連載ではそれぞれのお顔の写真を掲載したが(前田さんと八木の回のみ青空ふるほん
まつり風景)、二人は共に髯を蓄えられている。
その石田さんを著名な古本屋にしたのは、昭和五十七年に刊行された『街の古本屋入門』
(コルベ出版)である。石田ではなく「志田三郎」名義。この本の広告を石田さんから依頼
されたが、名前を混同して誤植してしまい、𠮟責の電話を頂いた。私の応対に「樽見さん、
これは正式な抗議です」と強く注意されてしまったことを覚えている。

石田さんが伊勢佐木町のビルに店を移されたのは何時だったか、神奈川県の古書組合長を
務められていた頃だったろうか。オープンして間もなく伺った。店内に大きめのテーブルが
ありお客との対話を大切にしたいからと話された。
往復書簡に「私が古本屋になるときに自分で決めた原則の一つに、愛蔵される書物よりも読む本をということがありました。つまり単価的にいうなら天井知らずの正反対、貧しい古本屋を自ら決定づけたようなものです。しかし私は、その原則を変更する必要をいまでも認めません。(略)そのせいでか、活字復権なる標語を掲げた横浜中心部における営業は、漫画も雑誌も追放してやってみたが見事失敗、現在の店はいわば都落ちの結果となりました。それでも
原則の変更はありません」とある。
『街の古本屋入門』を読んで古本屋になった人は少なく無い。光文社文庫をはじめ何度も形を変えて広く読まれ続けた。現在ではネット販売が大きな比重を占めるようになって、余程立地が良くない限り街の古本屋は立ち行かない。良い本さえ揃えればお客はどんな不便な所でも
来てくれると考えていた古本屋は多かったし事実そうだった。ネット社会がそれを変えたともいえるが、ネットで美味しいと評判になれば、驚くような山の中のレストランやカフェにも人々は押しかける。ただ古本屋には毎日毎週通い続けてくれる常連客が必要であり、評判の
カフェのようなわけには行かない点があるように思う。
『街の古本屋入門』を改めて読み直すと、実に懇切丁寧な解説で、随所に石田さんの読書家の片鱗が伺える。読書家石田の成果は一九九五年刊行の『ヨコ社会の理論―暮らしの思想とは
何か』(影書房)に結実する。この本の出版記念会が確か新宿曙町で開かれ出席した。
直接お会いしたのはこの時が最後かもしれない。ただ石田さんの個人誌『一石通信』は
ずっと送って頂いていたし、拙著『戦争俳句と俳人たち』(二〇一四・トランスビュー)が
出て朝日新聞の書評欄で取り上げられたのを読まれ、祝いのお電話を頂き「手元に日野草城の短冊があるから贈るよ」と言われた。
「玉菊の衰ふること忘れしや」
この短冊は額に入れて私の部屋に飾っている。
金坂、石田のお二人は、共に豪快にして細心、時に厳しい面を見せるが、優しい方で
あった。