『図書週報』復刻の意義と経緯
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古本ずきならば、即売会などで『古本年鑑』(1933~1937年刊)というフシギな年鑑を目にしたことがあるだろう。古本についての雑誌記事などが転載されていたり、古書籍商の一覧表があったり、難読書籍や著者の一覧があったり、古書業者向けなのか、愛書家(古本ずき)向けなのかよくわからない雑多な情報が満載されている。これを発行したのは沼津にあった古典社という出版社で、山林地主の息子だった渡辺太郎(1903~1995?)が経営したものだった。
私も以前から沼津という地方でなぜ『古本年鑑』?という疑問を前々から抱いていた。なぜ日本古書通信社でなく古典社が?なぜ東京でなく沼津?古書通信社と古典社との関係の有無は?といった疑問だが、このたび金沢文圃閣から復刻される『図書週報』(1930~1942年刊)を通覧するとその謎はほぼ解けることになろうと思う。通覧しないまでも、復刻の第1巻に拙文の解題「新本の週刊新聞から古本の月刊雑誌へ」を付しておいたので、そちらをご覧になっていただいてもよいだろう。 解題では、昭和初期に陸続と発刊された書物雑誌群の中で、古典社の『図書週報』や日本古書通信社の通信がどのような位置づけであったのかについて展望を試みた。特に比較のため、『日本古書通信』の発刊経緯についていろいろ調べたのは勉強になった。例えばなぜ『日本古書通信』がタイトル中に「通信」とあるか、今の古本ずきにはもはや分らないのではなかろうか。 『図書週報』は『古本年鑑』のネタ元であり、地方在住愛書家ネットワークの要であり、民俗学や方言学、書誌学といった当時新興の学問の孵卵器であり、『日本古書通信』にとっての先駆者であったと言えるのだが、このような面白く学史的にも重要な雑誌がなぜ今まで埋もれてきたのかといえば、前半期が週刊の新聞であり1枚刷り4ページの薄物、後半は月刊の雑誌なれど折あしく戦中期にて紙質が非常に悪いといった物理的特性から残りづらかったためだろう。しかし、当時の古本好きは見ていたのであった。 今回私が解題を書くことになったのは、2008年に『図書週報』の週刊新聞時代の揃いをたまたま「日本の古本屋」経由で購入したことがきっかけである。月刊雑誌時代の揃いを有していた金沢文圃閣と相互補完しあって今回の復刻と相成り、解題を担当することになった。私の買った『図書週報』の旧蔵者、青柳秀雄(生没年不明。郷土史家)を訪ねて佐渡へ渡ったのはその翌年の夏のことで、結局、青柳に行きつくことは――諸般の事情というやつで――できなかったが、昭和初期に書物蒐集をめぐるネットワークが、各地の知識人を中心に形成されつつあったことを実感したことだった。当時は3.11以前のこととて天下泰平、宿で食べたカニがおいしかったことを思い出す。 先月聞きに行った千代田図書館で開催された古書目録についての座談会でも感じたことだが、今回の『図書週報』や古書目など、ある知識分野が成立する補助線として確かに存在したざまざまなメディアは、例えば図書館などでは事務用とか執務参考として保存されずに見えなくなってしまう。エフェメラの本性ということでやむを得ない面はあるけれど、こと古本ずきや一部研究者には今回の復刻をぜひ手にとっていただいて、知の補助線を再認識していただきたいものである。個人が買いやすいものではないので、エフェメラを廃棄するのが身上の司書らを説得するのは一苦労であろうけれども。
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