「『作家の原稿料』刊行に寄せて ―経済事情の夢と現実―」お茶の水女子大学文教育学部准教授 谷口 幸代 |
「夢の印税生活」という文筆業への憧れを語る常套句があるが、では、作家の収入は実際にはどれほどのものなのだろうか。そもそも作家が筆一本で生活できるようになるのはいつ頃なのだろうか。たとえば文豪・夏目漱石は「吾輩は猫である」でいくらの原稿料を得て、それは漱石にとって生活費だったのか、それとも副収入だったのか。 こうした疑問に答える本書『作家の原稿料』は、江戸時代の井原西鶴や曲亭馬琴から、近代の漱石、森鷗外、谷崎潤一郎、志賀直哉、芥川龍之介ら、現代の松本清張、山田風太郎、筒井康隆ら、さらにゴーストライター(!)まで、500人を超える作家(文筆家)の気になる経済事情の夢と現実を学術的に調査・分析したものである。 そのために作家の日記や書翰、出版社の社史、編集者の回想記などの文献を博捜し、作家の報酬に関わる記述を蒐集した。プライベートな懐具合に関わることであるため、自ずと日記や書簡といった本来公表を目的としていない文献にあたることが主となり、そうした資料の性質上、蒐集した記述には当事者の覚え書きのような断片的なものも少なくなかったが、それらに関しては個々の記述の意味するところを関連資料で補い、また裏付けを試みた。 そこから精選したデータ約3,000件を、典拠となった文献を明記しながら元禄6年から昭和49年に至る年表形式にまとめ、その読み解き方を論考篇で検証したのが本書である。したがって、本書一冊で、作品の書き手と読者の間に本屋(出版社)が介在するようになった近世から、出版文化が開花するに伴い、出版業者と作家の関係が大きく変化した近現代まで、280年間にわたる作家の報酬の史的な変遷を辿ることができるということになる。 試みに今から70年前の昭和20年以降の数ページを捲ってみれば、インフレの最中の作家たちの姿を具体的に知ることができる。永井荷風は戦後のインフレの影響が原稿料に及んだことを「笑ふ可きなり」と揶揄し、高見順は物価の高騰からすれば原稿料の上昇の割合は小さいと冷静に分析した。いっぽう新人だった三島由紀夫の原稿料は同21年2月25日の新円切り替えの影響で二回に分けて支払われた。各項目に原稿料をめぐるドラマがある。 原稿料という視座から文学作品と書き手と読み手とメディアとを結んだ一冊として、手にとって下さった方の関心に応じて様々に活用していただければうれしい。
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