『展覧会図録の書誌と感想』について大屋 幸世 |
著者の大屋幸世氏が現在体調を崩され加療中でペンを執れないため、内容的には本書執筆の意図が余すところなく語られている「あとがき」を掲載させて頂く。その前に、本冊が八冊目となる「大屋幸世叢刊」刊行に込められた大屋氏の思いを、編集を担当させて頂いている者として紹介させて頂きたい。 大屋氏は長く鶴見大学で近代文学を講じられてきたが、その研究姿勢は極めて文学的なものであり、徹底した資料収集を基本とするものであった。研究姿勢としてはやや古い型に属し、論文発表や教務上の雑務もコンピュータ使用が前提となるなかで早期に辞職し、在野の研究者の道を選ばれた。 大学や研究会に属さない立場で、自由に研究や調査の成果を発表する方法として、私家版という手段を計画されたのである。研究者の私家版としては天理大学図書館の書誌学者木村三四吾氏にも例があり、同様に装丁は簡素を旨とされている。現在の研究界へのある種のメッセージを含んだものである。 日本古書通信社 樽見 博 本書まえがきより 美術展覧会などの図録の書誌作製の試みは、いままでなかったのではないか。私はこのような試みがなくてはならないと思っている。実はひとつ心配していることがある。現在、日本で刊行、出版されていた図書のすべては、原則として国立国会図書館へ納本することが義務付けられている。それに対して図録はどうなっているのか。国立国会図書館へ原則納められているのか。あるいは東京国立博物館、国立西洋美術館など公立の博物館、美術館へはどうなっているのか。というのも、ここ20年以前からの図録に載せられる美術研究者などの解説文は、ほとんど研究論文といってもいいほど高級なものとなっていて、美術評論、研究のための重要な資料なのである。ぜひ参照されねばならない。また図録の作品解説を読むと、そこには各作品の世界各地の展覧会出品の記録が掲載されている。すると、日本の出展記録も必要となる。そのためには図録が記録として重要な役を荷なってくる。こういう沢山の面から図録の保存は緊急の課題となってくる。現在、美術展覧会などはどの位開催されているのか。「藝術新潮」掲載の展覧会案内を見ると、月に60件近くの展覧会があるようだ。その全てに図録があるわけではなかろうが、それでも3、40冊はあるのではないか。年間にすると相当の数になる。私がここに作製した書誌掲載の展覧会の数は多分全展覧会の1%にも満たないのではないか。全展覧会の図録書誌が求められる。 ところで書誌と言っても、私は随分手を抜いている。たとえば、儀礼的な序文はほとんど掲載しなかった。そこには政治家、外交関係者、美術館等の管理者などの名がある。また主催者は明記したが、官庁、大使館などの後援機関の名称も省いた。しかし、その展覧会の社会的、政治的背景を示すこれらは、完全な書誌のためにはぜひ記載しなくてはならない。これらは後来の完全な書誌を作製する人のために残して置いた。 ところで〈感想〉として、私の展覧会に対する感想を置いた。繁、簡さまざまである。なかにはピカソに対する疑義、横山大観作富士図に対する批判など、いらざることも書いた。これらは、客観的であるべき書誌を汚すものであるかも知れない。孔子は70にして矩を越えずと言った。私のこの〈感想〉は明らかに矩を越えている。しゃべり過ぎている。しかし70を越え、75歳に近くなった私としては、言いたいことを言うことは許されると考える。老いの繰り言である。私は文学を専門として学んできた。しかし過去を振り返ると、文学とともに、あるいはそれ以上に美術作品に接して来た。音楽がそれに次ぐ。そういう私にとって、多分これが最後になるだろう、私の美術観を思っきり述べたのである。何等新見があるわけはない。あたり前の美術評価かも知れないが、書き残したまでである。 ![]() 大屋幸世叢刊8『展覧会図録の書誌と感想』 大屋幸世 著 日本古書通信社 定価:2,200円+税 好評発売中! http://www.kosho.co.jp/kotsu/ |
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