本とエハガキ(9) 情報処理①タイプライター小林昌樹(近代出版研究所) |
書斎は情報処理ターミナル 次回は個人書斎と予告しながら、数千枚のコレクションから抜き出した十数枚の個人書斎写真エハガキが行方不明になってしまったので、今回はそのかわりに、組織の情報処理の一環として、タイプライターが写っている、情報生産現場の写真エハガキを紹介したい。 こういった観点から見ると、個人の楽しい書斎も、情報流通過程、情報のリサイクリングの一ステップだったということになる。逆に組織(会社、役所)の事務処理も然り、ということで書斎エハガキに替える次第。
PCの前駆? タイプライターいまの日本人はほとんど、PC(個人電算機)でローマ字漢字変換して怪しまない。PCのキーボードは、1980年代は親指シフトという超速度入力可能なキー配列製品もあったのだが、現在、みなみなQWERTY式(=ふつうの)のキーボードから、ローマ字で日本語を入力していることだろう。しかし、PCのない、タイプライターしか文字入力手段がなかった時代には、そのままローマ字で日本語を出力すればいいじゃん、という文化運動があった(同時に事務効率化運動でもある)。 【図8-1】は昭和11年に使われた暑中見舞いのハガキだ。タイプライターでなく、活字だが、日本語をローマ字表記しなければならないので、「ことば直し」からローマ字書きを始めていることがわかる。要するに「しょちゅーみまい」といった漢語をなるべくやめて「ATUSA no OMIMAI」といったように、同じ意味の和語へなるべく置き換えて表記する運動だ。発行者は「NIPPON-NO-RÔMAZI-SYA」。この、日本のローマ字社は、1909年に設立され、現在も存続している。 タイプライティングは特殊技能さて、ローマ字を書く(打つ)にはタイプライターである。1980年代、海外に洋書を発注していた私は、親の店の店員さんの私物の小型タイプライターを借りて注文書を書いたものだった。また大学図書館に学生嘱託で勤めていた際にはタイプライターでラベルの請求記号を書く作業が仕事にあった(「ラベル打ち」といったっけ)。それで自然とブラインドタッチもできるようになり、1980年代後半の和文ワープロ革命になじむことができたわけだが、それ以前、そもそもタイプ打ちは特殊な技能と思われていた。 そこで、【図8-2】のように専門学校でタイプライターの打ち方を習うということが昔は普通だった。 【図8-2】は大型のタイプライターが6台と、奥にさらに大きな和文タイプライターが4台写っている。金城女子専門学校は1889年名古屋に開校した宣教師の学校を前身とし、戦後、金城学院となっている。 OAの日本史とタイプライター戦前、ふつうの会社では手書きの帳簿をメインに事務処理が展開されており、【図8-3】の、戦前、埼玉県熊谷にあった産業組合のように、事務室にタイプライターのない会社がほとんどだったろう。 この熊谷信用組合はに大正5年7月7日設立されているので、写真は大正8年の可能性もあるが、昭和8年の気がする。というのも左の壁に「日めくりカレンダー」が掛けられており、その上部の数値が「1933」に見えるのと、中央やや左で書き入れをしている人物の前にある帳簿をよく見ると「天」にあたる部分に筆で「〓〓八年」と見えるからだ。 中央の大会社でないせいか、電化製品は天井から吊り下がった電灯と、カウンター右端に見える電話くらい。巨大な金庫が3台、中型が1台見えるが、現金や貴重書類を入れていたのだろう。金庫は日本で最初に普及した金属家具といえるが、金属家具ということでは、現在のブックスタンドに似た帳簿タテにより、帳簿が立てて置かれているのがわかる。帳簿はランダムアクセスが必須だったからだろう。本棚の歴史にからんで金属家具の歴史を調べたことがあるが、それらが導入されたのは大正期の財閥系大会社が初期のものだったという。 しかしそれでも、タイプライターを導入する中小の会社もあった。 【図8-4】を見ると、16人写っている人物のうち目立つのは左から2人目、唯一の女性である。彼女はタイピストで、眼の前に置いてあるのは形から言って和文タイプライター。この写真全体の構図が、彼女と和文タイプを活かしたものになっている。帳簿主体の事務処理だが、最先端の日本語処理機と「職業婦人」がいる、という点で、先進的な会社であることを暗示したかったのだろう。もしかしたら彼女は【図8-2】の学校でタイプを習ったのかもしれない。 大きな組織で大掛かりなOAの時代金属家具といい、タイプライターといい、昭和前記の大会社にはかなり普及していたようだ。【図8-5】は今のニッセイにあたる大会社の「事務室の一部」とあり2枚の写真が掲げられている。 「保険証券の作成」という写真には、推定10名以上の女性タイピストが、やはり10台以上の和文タイプライターを操作している場面が写されている。どこで見たものか思い出せないのだが、文字盤にカーソルを合わせて、ガッチャン、スー、ガッチャン、といった具合に文字が拾われ紙に打刻される場面を1970年代か80年代に見た憶えがある。ユーチューブにも操作動画がいくつかある。そういえば1980年前後に、親のプラモデル屋で売られていたGDW社のボードゲーム、『Russo-japanese war』のルールブック和文解説は、和文タイプ打ちを簡易印刷したものだった。今でも押入れにあるはず……。 【図8-5】では「統計機械の操作」という写真も載せられており、男性のオペレーターが巨大な機械計算機を動かしている場面が写されている。 日本の近代化に功績のあった福沢諭吉は「一身にして二生を経る」と言ったが、私もまた情報処理においては同じ経験をしている。個人には手書きしかない時代の活字のアウラも憶えているし、和文ワープロの衝撃も憶えている。 アスキーアートの先祖?タイプライターついでに、ちょっとオモシロいエハガキを紹介しよう。【図8-6】がそれである。「中等教科研究社」から、名古屋第二商業学校英語科宛の絵のエハガキ。中等教科研究社が出した「タイプライターマニュアル」なる本の著者が堺商業学校で指導した生徒がタイプライターで書いた「芸術画」だとある。「M字の強弱により描出せる」ものだそうな。この絵は昭和7年の陸軍特別演習の際、「天覧の光栄」に浴したというから、昭和帝が見たのだろう。陸軍特別演習で海軍重巡洋艦「那智」というのもチグハグだが。 このエハガキは日本絵葉書会の交換会で見つけたもの。当時、アスキーアートがはやっていたので、「(゚∀゚ )アヒャ これはアスキーアートの先祖では(≧∇≦)ノ」と拾ったものだった。国会図書館のデジコレを見ると、これを書いた小山栄三くんはさきの大戦で無事、満洲から引揚げ、戦後、繊維関係会社の社長となって1990年ごろまで長生きしたようだ。写真でなく絵のエハガキなので著作権はまだ残っていると思う。 ちなみにタイプライターはあくまで同じ強さで打つのが正しいとされていたので、強弱で絵、というのは邪道ではある。 次回は……行方不明の書斎エハガキが出てくればそれを取り上げたい。出てこなければ情報処理②として、さらに情報機器のエハガキを取り上げる。 エハガキの罫線パターン(連載1回にも掲載)お知らせ――『あったかもしれない大東亜図書館学 ガラパゴス的日本主義図書館学の形成』情報処理史の観点から、戦時中のちょっと奇妙な日本式図書館情報学の歴史を掘り出した同人誌が懇意の出版社サイトで購入できます。 「大日本帝国」が地球上の数分の一を実効支配していたディストピア。それを前提にしている分、けっこう誇大な、あるいはSFはだしの事業や議論は、図書館人や出版人がマジメであるだけに、実は奇妙にもオモシロかったりもします。ソ連包囲下のベルリンからナチス科学を東京に電気通信しつづけた日本文部事務官がいた! 彼は別途、伊号潜水艦で学術雑誌を日本へデリバリーをしようと……。そしてそれらを紐解く史料は彼の私家版の歌集、などなど。
|
|
Copyright (c) 2025東京都古書籍商業協同組合 |









1-300x115.jpg)

















