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『漢字辞典の謎――なぜ似ている 白川静『字統』と諸橋轍次『広漢和辞典』』について

『漢字辞典の謎――なぜ似ている 白川静『字統』と諸橋轍次『広漢和辞典』』について

小山鉄郎
 諸橋轍次著『大漢和辞典』(全13巻、1960年完結、大修館書店)は「漢和辞典の金字塔」と言われる辞典です。この『大漢和辞典』刊行の業績で、諸橋轍次は1965年に文化勲章を受章していますし、出版元の大修館書店(鈴木一平社長=当時)も菊池寛賞を受けています。そして『大漢和辞典』は、いまも新聞、通信社、放送、出版メディアの世界で、漢字の問題を解決する漢和辞典となっています。

 でも不思議なことに、その後に刊行された大修館書店の漢和辞典、例えば『大漢語林』や『新漢語林』などの[解字](漢字の成り立ちの説明)には、なぜか『大漢和辞典』の[解字]に従っていない漢字がかなりの数あるのです。しかも、それらの漢字の説明が白川静が解明した字説と非常に似たものに変更されているのです。これは、いったいどういうことなのか……、そんな漢字辞典界の謎を探った本です。

 白川静も漢字研究で2004年に文化勲章を受けた研究者ですが、私は最晩年の白川静から、直接、漢字の仕組みを教えてもらい、白川静が解明した漢字の体系的な成り立ちについて、20年以上紹介してきました。この過程で『大漢和辞典』も読み、以上のような事実を知ったのです。その大修館書店の漢和辞典の[解字]変更の始まりは、諸橋轍次が最晩年に著した『広漢和辞典』(1981年~82年、全4巻、鎌田正、米山寅太郎も共著者)でした。この『広漢和辞典』は『大漢和辞典』の「姉妹編」と呼ばれています。

 一例を紹介すると「師」「追」「遣」「官」「歸(帰)」に共通している「𠂤」(タイ・シ)は、白川静によると「自分の軍隊を守る霊力ある肉」のことです。初版の『大漢和辞典』ではこれらの字について「霊力ある肉」と説明したものは一つもありません。でも『広漢和辞典』では「師」「追」「遣」「官」「歸(帰)」の「𠂤」を霊力ある肉の形という[解字]に全て変更しています。その変更は『大漢語林』『新漢語林』にも引き継がれています。

 白川静の漢字研究では「口」の字形が顔の「くち」ではなく、神様への祈りの言葉である祝詞(のりと)を入れる器「口」(サイ)であることを解明して、「口」の字形を含む漢字を新しく体系づけた業績が有名です。「器」「右」「吉」「吾」「害」「各」「司」「詞」「聖」「君」「史」「吏」「事」「言」「霊(靈)」など字形内に「口」を含む漢字について、『広漢和辞典』以降の大修館書店の漢和辞典が白川の字説と似た「のりと」や「祈りのことば」などの解釈へと、転換している文字がたくさんあることも具体的に指摘しました。

 白川静の文字学は呪術的な解釈が多いのですが、その代表的な解釈に「道」についての字説があります。「道」になぜ「首」の字形があるのか、考えてみると難しい問題です。
 『大漢和辞典』では身体のてっぺんにある「首」を行きつく所と考えて、それに「辶」(歩き行く意味)を加えて「歩行のみち」「ひとすじみち」と「道」の文字を解釈しています。かなり苦しい説明で、これでは、すっと得心できる[解字]にはなっていません。
 白川静は、奴隷の「首」を切って「首」を「手」で持ち、その怨みの力で「道」に潜む邪霊を祓いながら「道」を進んだことを示す文字だと考えました。安全な共同体から他の氏族のいる土地や外界に通じる「道」は邪悪な霊に接触する非常に危険な所だったので、異族の人の首を刎(は)ねて手に持ち、その呪力によって邪霊を祓い清めて進んだのです。

 その「道」について『広漢和辞典』の[解字]はどうなっているでしょうか。
 それは「首は、くびの象形。異族の首を埋めて清められたみちの意を表す」となっているのです。これも白川静と同じ考えへの大転換と言っていいでしょう。
 このような突然の[解字]の変更について、いくつかの例を挙げてみても、私の驚きが読者に伝わらないかと思い、系列的につながる文字の解釈がまとめて、ごっそりと変更されている文字群をたくさん挙げて、本書を書きました。

 白川静は字書『字統』(1984年)のまえがきで『広漢和辞典』の名を挙げて「その字説は一見して明らかなように、みだりに他家の研究をとり入れたもので、その拠るところをも明記せず、ときに俗説を交え、著しく体例を失ったものとなっている」と書きました。自分の最初の字書のまえがきで、他の辞典へのこのような激しい批判の言葉を記すことは、希有、異例なことです。白川静の深く強い怒りが伝わってきます。この白川静の怒りの言葉に込められた漢字学上の謎の解明に迫った一冊です。

 『広漢和辞典』以降の大修館書店の漢和辞典に採用された[解字]には白川静が1955年(昭和30年)頃から発表した「釈文」「釈師」「釈史」「載書関係字説」など、白川静の文字学の代表論文と重なっている漢字がかなりの数あります。
 もし『広漢和辞典』以降の大修館書店の漢和辞典が白川静の研究を取り込んで編纂されたのならば、「その拠るところ」である白川静の名を明記すべきではないかと思います。先行研究の尊重は、学術分野において最も大切なことであるからです。

 もう一つ大切なことがあります。『広漢和辞典』後に『大漢和辞典』の修訂版(一九八四年~)修訂第二版(一九八九年~)が刊行されていますが、現在多くの図書館に置かれている『大漢和辞典』修訂版、修訂第二版には意味不明な[解字]があるということです。
 そんな例の一つに「既」があります。「既」の左側は「皀」という文字で、食器の形です。右の「旡」を『大漢和辞典』は「いきがつまる。飲食の逆気で、息ができない」文字と解釈していました。ですから「既」は「うまい飯粒があっても、喉がつまって十分食うことができない義」というのが、もともとの『大漢和辞典』の[解字]でした。

 これに対して白川静は、「旡」は「人が後ろを向いて口を開く姿」で「既」は食事を食べ飽きて後ろを向いてげっぷをする姿であると述べています。そして『広漢和辞典』以降の大修館書店の漢和辞典は『大漢和辞典』の[解字]を棄てて、「ごちそうを食べつくし、そっぽを向いた人のさまから、つくす・すでにの意味を表す」(『新漢語林 第二版』)などと白川静の考えに近い[解字]に変更しています。そして『大漢和辞典』も、これを修訂する際には、もともとの[解字]の後に、どちらが正しいかを記さないままに、『広漢和辞典』の[解字](白川静の字説にそっくりな説明)を加えているのです。

 このため『大漢和辞典』の「既」の項には、わずか7行の[解字]欄に「うまい飯粒があっても、喉がつまって十分食うことができない義。少し食べる義」と「器に盛った食物(皀)を食べ尽くして脇を向く(旡)の意」という全く逆の[解字]が並記されています。
 これでは「既」は「十分食うことができない」意味なのか、「食べ尽くして脇を向く」意味なのか、『大漢和辞典』の読者は[解字]を理解することができません。つまり、どれが正しい説明なのかを放棄した、意味不明の漢和辞典となっているのです。

 他にも、全く異なる[解字]が並記されて、どちらか正しい[解字]なのかが明示されていない文字が多く、『大漢和辞典』の修訂版、修訂第二版が、国民的な基準漢和辞典としての位置を保っている現状に、大きな疑問を抱いています。
 今年は2006年に白川静が96歳で亡くなって、ちょうど20年、白川静没後20年の記念の年です。ともに文化勲章を受けた著名な漢字学者、諸橋轍次と白川静の漢字学の関係をぜひ知ってほしいと願っています。


小山鉄郎(こやま・てつろう)
1949年、群馬県生まれ。元共同通信社編集委員・論説委員。村上春樹作品の解読や白川静博士の漢字学の紹介で日本記者クラブ賞受賞。白川静に関する著書に『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』(共同通信社)、『白川静入門 真・狂・遊』(平凡社新書)、『白川静さんに学ぶ これが日本語』『白川静さんに学ぶ 漢字がわかる コロナ時代の二字熟語』『白川静さんに学ぶ 漢字の秘密まるわかり』(論創社)など。2009年から白川静博士の業績を学ぶ同人会「白川静会」の事務局長を務めている。




書名:漢字辞典の謎 なぜ似ている 白川静『字統』と諸橋轍次『広漢和辞典』
著者:小山鉄郎
出版社:論創社
判型・ページ数:四六判・216ページ
定価:2,420円(税込)
ISBN:978-4-8460-2534-2
Cコード:0081

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