「プレイガイドジャーナルへの道」(東方出版)のこと村元 武 |
5月に「プレイガイドジャーナルへの道」を上梓した。1971年7月創刊のイベント情報誌「プレイガイドジャーナル」(月刊)は、70年代を通じて、20代30代関西の若い世代のライフスタイルに関わってきた。 同時代、同空間、同地平を生きたといえる。最盛期には10万部ちかく刊行したので、読者はかなりの人数になる。14年続いたので、読者層もその程度の年齢の幅があった。 還暦を超えた友人から、その記録を書くべきだと強く勧められていた。しかしこの雑誌について書くことは、僕にとっては創刊に至る数年間の活動に触れざるをえない。それがなければ創刊もなかったのだ。69年からのアート音楽出版(音楽舎・URCレコード兄弟会社)での月刊誌「フォークリポート」の編集があり、さらにその前には64年からの大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)事務局勤務、中でも68年から音楽会の制作や機関誌「新音楽」編集に携わった2年間があった。 世は70年安保の時代だった。またベトナム戦争と学生運動、大阪万博もあって激動の時代だった。大阪労音は49年創立で、64年には毎月企画される音楽会を鑑賞する会員が15万人もいた団体だったが、その後数年で半減し、再建案が組織をあげて討議されていた。68年、自身で身を切る事務局案、過剰な事務局員数を退職させて周辺の新規事業展開に従事する案が決まったが、実行をめぐって、運営機関の中のある党派に属する委員が審議をストップさせてしまった。1年間に亘って事務局組合は苛烈な闘争をしたが、69年、敗れて事務局員の総辞職(数人を残して)にいたった。 僕はアート音楽出版に入社した。時代の波は歌い手、歌の作り手、聴衆を増やして、新しい歌を数多く生んだ。新宿西口駅広場のフォーク集会の盛り上がりなど社会問題化する中で、音楽舎・URCレコードは急拡大するが、既成メディアは広がる歌を放送禁止や発売禁止で閉じこめようとし、ある政党機関紙はフォーク運動に反共的政治潮流があると決めつけ、音楽舎をスター主義だと批判した。またフォークソング運動の先鋭な推進役だったフォークゲリラは、歌い手のリーダーらの歌と生活、音楽舎・URCレコードを商業主義だと批判するのだった。 そんな状況の中で、70年には音楽舎・URCレコード・アート音楽出版は運営が逼迫し、活動の縮小に追い込まれた。さらには71年明けて「フォークリポート」がわいせつ図画販売容疑で押収されるに至り、僕は退職して、前年に取り組んだ黒テント関西興行の実行メンバーや大阪労音退職者たちとで画策し「プレイガイドジャーナル」を創刊したのだった。試行錯誤を重ねて態勢のメドがつきかかった73年まで、この6年間の体験は僕にとってはひと続きのもので、大きなうねりの中で雑誌は生まれた。その記録を書くことが本書の目的だった。 むらもと・たけし 1943年生。現在ビレッジプレス代表。吹田市の天牛書店ビルに事務所を置いた時代に季刊「BOOKISH」を刊行した。94年創刊の季刊「雲遊天下」は健在。
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