『気がついたらいつも本ばかり読んでいた』岡崎武志 |
私の名刺には「書評家」と肩書きを付け、ライターとしての仕事の中心も、書評や本にまつわる文章が多い。しかし、これまでに書評のみで一冊、本を作ったことがなかった。売れないからである。川上弘美、角田光代、小川洋子、堀江敏幸といった実力を備えた人気作家なら、書評集も著者の個性で売ることができる。しかし、高名な文芸評論家でも、書評だけを集めた本は出にくくなった。 私も仕事の中心としながら、書評が本にまとまることはあきらめていた。ところが、拾う神がいて、本にまとめましょう、と言うのである。しかも、書評以外の雑多なジャンルの文章も一緒にして、ヴァラエティブックにしようという申し出だ。ありがたいことだと思った。 「ヴァラエティブック」というのは、一九七一年に晶文社から出た植草甚一『ワンダー植草・甚一ランド』をその嚆矢とする、書籍のスタイルを指す。通常、一段、および二段組で、テキストを流し込むところを、一段、二段、三段、四段と違う組み方で、評論、エッセイ、コラム、対談あるいはビジュアルページを雑多に編集、構成。まるで雑誌みたいな単行本のことで、小林信彦、双葉十三郎、筒井康隆などが、晶文社で同様のスタイルの本を出していた。七〇年代に本読みとして青春を送った我々は、この自由な本の作り方に憧れ、大いに感化されたのである。 のち坪内祐三、小西康陽各氏が同様のヴァラエティブックを作り、その喜びをあとがきに書き付けた。私も『雑談王』と名付けて、二〇〇八年に晶文社からヴァラエティブックを作ったことがあった。うれしかった。今回は二度目となるが、前回より、もっと自在に、果敢に「バラエティ」色を出すことにした。大ぶりのA五判、ハードカバーという点も、晶文社ヴァラエティブックへのオマージュである。 メインとなる書評は、これまで掲載記事をスクラップしてきたものを二十数冊、担当編集者に預け、そこから、今読んで、読みものとして成立しているものを選んでもらった。それだけでは書評集になってしまう。そこで「ヴァラエティ」色を出すためにしたことは、ほぼ毎日、十年以上更新し続けているブログ「okatakeの日記」から、使えそうなネタを拾って、加筆、修正してコラムに仕立てることにした。 扱うジャンルは、読書、音楽、テレビ、芸能、映画、散歩、古本、飲食など幅広く、書評だけでは見えない、岡崎武志という人間の関心や趣味の総体をこれで開陳することになった。そこに挟み込むイラストも60点以上、自分で描き下ろした。そのほか、撮りだめた古本屋写真、スナップなども随所に織り込み、全体に賑やかな印象の本になったと思う。これには編集者とデザイナーの力が働くところが大きい。私はほとんど素材を用意しただけ。平面を立体にしたのは彼らの力であった。 ゲラを読みつつ気がついたのは、取材した人、知り合った人の訃報を聞き、それについて多く筆を費やしていることだ。中川六平、田村治芳、森田芳光、三国連太郎、秋山駿、丸谷才一、市川森一、それに八木福次郎といった方々である。つまり、それだけ自分も年を取ったということであろう。神戸・海文堂、神保町・書肆アクセス、鷹の台・松明堂は書店の消滅。これも嘆きながらありし日の思いを記録として留めた。 古本、古本屋に関しても、もちろんあちこちに書き付けていて、なるべく収録するようにした。「昭和五年の日記」は、古本市で求めた本郷あたりに下宿する帝大生の肉筆日記。途中でページが無惨に破り取られていた。左翼運動に加わっていたようで、その後が心配だ。古本で買い直した高野悦子『二十歳の原点』では、カバーデザインが杉浦康平だと気づき、また一九六九年の記述に「傘がない」を発見、井上陽水「傘がない」を引っ張り出して、奇妙な類縁を指摘した。小林桂樹主演の映画『風流交番日記』(一九五五年)を観たあと、蔵書の山から偶然、その原作本を見つけ「へえ、持ってたんだ」と気づいたというバカバカしい話もある。葛飾区に「恋する毛髪研究所」なる理髪店を見つけ、近頃増えた奇抜異色な古本屋の店名に、「恋する古本屋」が加わればいい、といったどうでもいい話まで……。 というわけで、どこから開いても、何かしら読者の興味を引くような話題が見つけられるはず。まとまりはないが、岡崎武志というおもちゃ箱をひっくり返したような雑多さと、祝祭的であるのが本書の取り柄らしい。カラフルな色彩のカバーは、目移りする中身をよく表していると思う。これまで編著を含め、岡崎武志と名のつく本を三十冊は出してきたが、じつは『気がついたら本ばかり読んでいた』は、ちょっとした自信作なのである。
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