『阿久悠 詞と人生』を語る吉田悦志 |
よく聞かれることがある。どうして阿久悠なのですか、どうして古賀政男ではないのですか、と。昭和歌謡史を、あるいは明治大学芸能史を俯瞰するのであれば、古賀政男から書き起こすのが当たり前だと言われる。確かにその通りである。ただ、私なりに研究者の端くれとしての考え方もあった。あるいは切っ掛けもあったのである。 阿久悠さんが亡くなったのは丁度10年前の2007年8月のことである。その後、ご遺族や阿久さんが所属していた事務所の方から、ご自宅や事務所にあるゆかりの資料を明治大学に託したいという話があって、私がその頃社会連携担当の副学長であったことから、大学とご遺族の間を取り持つ役目を仰せつかった。 緊急事態だった。古賀政男さんにはすでに財団があり、まつわる資料等はしっかり保管し管理されていた。 阿久悠さんが遺した文化的財産は、今この時纏めて保管しないと必ず散逸する、という危機感が私にはあった。大袈裟に言えば、いま「阿久悠記念館」を作らなければ資料が拡散してしまうという焦りである。私は取り持ちをしただけで、その後具体的な設立への努力は、多くの関係者が担うことになり、阿久悠さんの没後4年目の2011年に阿久悠記念館はオープンした。 『阿久悠 詞と人生』を梓に上す発端はそんなとことだった。阿久悠さんはその生涯に5000曲あまりの詞と、100冊あまりの書籍を遺した。それらに纏わる生原稿やコピー原稿を捲る機会も得た。可能な限り曲を聴き詞を読み、書籍を読んで、この天才作詞家が詞と人生で表現した核心の一端だけにでも触れたいと考えるようになった。 阿久悠さん自身が、私を支えた3つの言葉があると書いている。小学生の頃教員が言った「君の文章は横光利一を思わせる」と、会社勤めの頃その後妻となる女性が言った「あなたは大丈夫よ」と、作詞家になってから父が言った「お前の歌は品がいいね」と、この3つの発語を軸にすることで、核心の一端に触れられないか、と考えた。これらの発語はつながりあって阿久悠の詞と人生を形成している。 だから、『阿久悠 詞と人生』は「文学」と「女性」と「父」というキーワードをめぐることになった。中でも「父」なる存在は阿久悠さんのアイデンティティそのものではなかったか、と確信するようになってきた。拙著の第1章に「父と子」を結構した所以である。 出版後、読売新聞の「よみうり堂」書評や、共同通信発・片岡義博さんのありがたい周到な書評や、週刊新潮に載った上智大学教授・碓井広義さんのこれまた素敵な書評を読むことが出来て勇気づけられている。 この先、阿久悠文学(「瀬戸内少年野球団」など)も、私が代表をしている昭和歌謡史研究会(明治大学史資料センター)で通読してきた亡くなる前26年に渡る「日記」についても、引き続き考えていきたいと思っている。
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