『蔵書一代』紀田順一郎 |
文筆業という仕事を選んでほぼ半世紀、その間に不要になった本や資料は随時処分してきたが、最後に約三万冊がのこった。その断捨離をめぐってのドタバタや、蔵書の関する論考を配したのが、近著.『蔵書一代』(松籟社、八月刊)である。 いったい蔵書処分の最終段階は、持ち主がこの世を去ってから実施されるものと相場がきまっているが、私の場合は生前に否応なく、蔵書に「さよなら」を告げざるを得なかったのだから、あまり例を見ないと思われる。すべての本が運び去られた後の書庫たるや、見るも無残な、荒廃した空間でしかなく、ポオの「生きながらの埋葬」を連想させられた。まさか八十歳を過ぎて、これほどの悲哀を経験しようとは思わなかった。 愚痴はこのくらいにして、本書の反響について記したい。七月のはじめに書店の店頭に並んで、現在までに二ヶ月経過したが、そのあいだ地味ではあるが、絶え間なく反響が続いている。最初のうちは知り合いや一般読者からの感想が多かったが、あとになるほど書評が増えはじめた。すべてに共通していることは、「切ない」「身につまさえる」ということばが含まれていることで、自らの蔵書について、いま重大なことが起ころうとしていることに、気がついているのだろう。 「賢い処分方法」を教えてくれた方もある。国文学のT教授は、定年で研究室を出るにあたり、蔵書を何冊かづつ学生に与え、残りを古書店に処分したという。そのほか書斎をカフェ型の図書館としたり、愛好家仲間を集めてオークションを行ったり、という例もある。 まだ私より十歳も若い評論家のH氏の場合は、余力のあるうちにと、近く完成する某社の文化施設に全二万冊の蔵書を寄贈しようと、このほど目録を作成したという。 思えば私は五十代のころから、自分の考えや生き方を反映した蔵書を、一つのまとまりとして受け入れてもらえる施設はないものかと考えてきたが、業績の乏しい者にはムシのよい願望にすぎなかったようだ。しかし、ある程度以上の学者や研究者に関しては、その蔵書や資料類を公的にまとめて継承するようなアイディアはあってもよいのではあるまいか。昔とちがって、蔵書の散逸と再構築というリサイクルの過程にはロスも多く、全体として学問そのものが細分化し、スケールダウンしていくことに手を貸しているような気がしてならない。蔵書問題は複雑で、その根は深い。
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