『近世読者とそのゆくえ ―読書と書籍流通の近世・近代』鈴木俊幸 |
旧著『江戸の読書熱』(2007年、平凡社)で触れたが、書籍そのもの、それを生み出し流通させていくシステム、また大方の書籍への接し方は、江戸時代の後期、19世紀になって大きな変化を見せる。それは、民間における知の底上げに根ざすものであった。 それが、明治という時代を迎えてどのように変化していったのか、あるいは存続していったのか。歴史に名を残すような、また自らの文化的営為を記録するような特殊な個人ではなく、個々の記録を期待できないような、ごく普通に生活していた圧倒的多数の普通の人々の営為、その総体がどのように時代の流れを形成していったのか。これがもっぱらの関心事であったのだが、普通を捉えることは、けっこう難しい。 どのレベルのどういう資料で捉えるかで、描き出される時代の様相は大きく違うものになるであろう。このたびの拙著で用いた資料のほとんどは安いものである。大半が、古書会館を起点としての神保町歩きで拾い集めたものである。よく見かけるものは安い。そしてよく見かける安いものの多くは、当時において大事にされていたものの今では見向きもされなくなったものか、たくさん出回って多くの人間の日常を普通に満たしていたものであることが多い。これら当時の人間が実際に手に取った現物の集積が自ずと語りはじめるものは、時代を貫いて誰しも保持していたものの今では忘れ去られている心性であったり、生活とともにあったささやかな文化的営為であったりする。安い和本を買い集めて触りながら、普通の人々の生活のなかでどのように学問と文芸が位置づけられ、それが時代の推移とともにどういう変化を見せたり見せなかったりしたのか、書籍流通の変化との相関をにらみながら考えてみたのが今回の拙著であった。 資料の長々しい引用やしつこい書誌が多く、読みやすい本ではないかもしれない。架蔵のものを含めて、簡単に接することの難しいものが多いので生に近いままで掲出した次第である。拙論はいずれ古びていくであろうが、資料は古びない。私にしても架蔵の資料をいつまで保持、管理していられるか分かったものではない。資料は観点を変えれば、別の面を見せたりする。今後の再利用の可能性のための掲載であると割り切っていただいて、面倒くさいところは端折って読み進めるのが時間の節約かもしれない。 それにしても歩けばまだまだ面白い本に出くわせるものと思いながら、神保町帰りの電車の中で本稿を仕上げた次第である。
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