『「言論統制」の近代を問いなおす:検閲が文学と出版にもたらしたもの』金ヨンロン |
本書の構想は、2018年1月26日に十重田裕一氏の企画で開かれた「国際検閲ワークショップ」(於早稲田大学)が切掛けになっている。その場に集まった5人の若手研究者はその後も議論を重ね、互いの論文を読み合った。企図したのは、戦時中の内務省検閲、占領期のGHQ/SCAP検閲に関するこれまでの研究成果を踏まえたうえで、新たな研究の方向を模索することであった。「新しい研究の方向」とは何かは本書を通して論じているが、せっかく自著を語る機会を得たので、編者の一人として簡単に振り返ってみたい。
今回自著を語るにあたって、改めて読者の立場になって読み直そうと思った。しかし、当然ながら編者・筆者は、それまで何度も読者の読みを想定して本書を読んでいる。未知の読者、たまには具体的な読者の顔を浮かべ、繰り返し読んでは修正と加筆を行ない、過去に使われていた差別的表現に注をつけながら書物に仕上げたのだ。そう考えると、文章を書き、出版するプロセスにおいて表現者が完全に「自由」であることは不可能ではないか、程度の差やレベルの違いはあっても「制約」はつきまとうものだ、と思えてくる。まして本書で扱う「近代」は戦争が絶えず、制度としての検閲まであった時代であるから、表現・出版にまつわる「制約」がどれほど厳しいものだったか、想像するだけで息苦しくなる。 表現者は文章を書きながらも、そして脱稿した原稿を読み返す際にも、検閲者の立場になりかわっていただろう。自分の書いた文章によって困るかもしれない編集者の面々も思い浮かんだはずだ。一方で、そうして生まれた表現を目の前にした検閲者も、表現者の心中を探るために何度も表現者の身になってみたり、その表現が及ぼす影響を検討するために読者の立場をなぞったりしたであろう。つまり、日本の近代は言論が厳しく弾圧された時代だったと片付けるのは難しくないが、そこにいた人々が極めて複雑に言論統制にかかわっていて、現場の「制約」も様々に重なっていたことを明らかにするのは容易でない。このような意識を本書の筆者たちは共有していたと思う。 出版警察体制のもと、公共図書館の職員は言論統制に加担したのか、それとも抵抗したのか。書庫で忘れられていた事務文書はそのような線引きを不可能にすると牧義之氏は述べている。表現者であると同時に表現を規制する側にいて、児童文化の統制に大きく関与した佐伯郁郎に注目した村山龍氏と、岩波文庫が受けた検閲処分の内容を通して、本を刊行するために奮闘する出版社側と書き手との間の緊張関係を想像させた尾崎名津子氏の論考もこのような「統制」現場の実情を再照明する。占領期の検閲を扱った金ヨンロンは、占領される側にいた日本人が、占領する側の検閲方針にしたがって文章を読む営為を特殊な読書プロセスとして捉えた。しかし、検閲される側に「日本人」でなく「在日朝鮮人」を置くとどうなるか。在日朝鮮人文学の巨匠・金達寿を取り上げ、彼の表現を不自由にしたのが占領側の検閲だけではなく、在日朝鮮人コミュニティーという表現者が属していた内部の、見えない圧力でもあったことを逆井聡人氏は明らかにした。 制度としての「検閲」が無くなり、「検閲」という言葉が無くなったとしても、文章を書く現場、それを出版して流通させる現場、それを読む読書の現場から完全に「制約」が無くなることはない。だからこそ「統制」が行われる現場の複雑性に注目することには今日的な意義もあるだろう。ただし、この本がタイムリーに刊行されたと思う読者がいるなら、それは喜ぶべきでないのも確かだ。
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