論文には書けないこと――『近世前期江戸出版文化史』の裏側で速水 香織 |
大学三年時、はじめて井原西鶴の浮世草子を真剣に読んだ。正直に白状するが、面白さどころか内容からほとんど理解できず、専ら『対訳西鶴全集』の口語訳を頼りに必死に読解に取り組んだ。そして命からがら読み終えたとき、唐突に出てくる謎の人名は何なのかと不思議に思ったものだ。それが刊記(現在の奥付)に刻まれる板元名であると知ったのは、しばらく後のことだった。
西鶴浮世草子の主要な板元は、おおまかに言えば、前半の貞享年間(1684-88)では大坂の岡田三郎右衛門・森田庄太郎で、後半の元禄年間(1688-704)になるとその二軒は撤退し、やはり大坂の雁金屋庄兵衛らが登場する。しかし江戸においては、それはほとんど一貫して万屋(よろずや)清兵衛から売り出されている。この本屋は一体何者なのか。その素朴な疑問が、本書の出発点である。 万屋清兵衛は、江戸の地で八〇年以上、少なくとも三代にわたって出版活動を行い、京・江戸・大坂の三都を中心に、実に多くの同業者と交流していた。ということは、この本屋の活動実態を明らかにするためには、他の多くの本屋にも調査を及ぼし、地域や時代のあり方に考えをめぐらす必要があるということだ。芋づる式というより、蜘蛛の巣状に広がってゆく調査対象に慄きながらも、今は物言えぬ本屋たちの姿を、当時の社会状況を背景に、見誤らないよう描き出そうと努めてきた(ただし本屋たちは、全く想定外の刊記情報を残してくれるなど、思いもよらない主張を突如繰り出してくることがある。しかもそういう事例に限って、あとから見つかったりするのだ…)。 本書のもととなった論文を執筆するための情報収集にあたっては、「あとがき」に書いたとおり、国文学研究資料館にとてもお世話になった(現在もお世話になっております)。今は東京の立川市にある資料館は、私の大学院生時代は品川の戸越にあった。当時の私には、お金はないが体力はあったので、上京する時はいつも夜行バスを利用していた。遮光カーテンをほんの少し開けて外を覗き、深夜の東名高速を疾走する黒猫や飛脚を眺めては「ああ、日本の速くて正確な物流の一翼は、こうして支えられているのだなあ」と感動を覚えたものだ。本書の校正原稿を、この物流サービスが何度も運んでくれたのだと思うと、あらためて感謝の念が沸き起こってくる。 夜行バスは、未明に東京駅に到着するので、朝の数時間を持て余す。そこで一度、東京駅から皇居へ出て、そこから万屋が長く本拠地としていた日本橋南詰まで歩いてみたことがある。それほど時間はかからず現地にたどり着いたとき、ふと、万屋にとって、江戸城からほど近い一等地に店を構え、本屋仲間の筆頭行事(組合の責任者的存在)として活動するのは本当に誇らしかっただろう、そして活動途中で通本町三丁目に店舗を移転することになったのは、間違いなく望まざる無念な出来事であったのだろうと感じられた。 万屋の営業地と所付(ところづけ。名前に冠している住所)の問題、また店舗を移転した事情については、調査が及んだ限りのことを本書にまとめた。万屋の歴代当主が、その時何を思っていたかなどという私の妄想はそこには書いていないが、しかし、木版本の背後にそれを生み出した、血の通った人々の存在があるのだということは、いつも念頭に置いている。時代、文化とは、個々の人間の情熱や思念に支えられた営みの集積の上に形成されていくのだろうと思うのだ。 本屋たちが生み出し、先人が遺してくれた木版本の中から、調査対象とした板元の名を刻むものを、落穂を拾うような心持で見つけては年表化してきた。ようやく一冊にはまとめられたものの、まだ数えきれないほどの課題が残っている。多くの人に支えていただきながら、これからも、私のチリツモ調査は続いてゆくだろう。 『近世前期江戸出版文化史』 速水 香織 著 |
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