『路上のポルトレ──憶いだす人びと』森まゆみ |
この本を出して嬉しかったことは三つある。 四半世紀前、新潮社で『明治東京畸人傳』を出すとき、実は登場人物はかつて私の住む谷根千にふいと姿を現した人たちなので、「路上のポルトレ」という題を思いついた。しかし、おしゃれすぎて地味すぎると実現しなかった。 もう一つは、谷中に生まれ育ち、上野の藝大で学んだ有元利夫さんのフレスコ画が私は好きだった。あるとき私は編集者に提案してみたが却下された。しかしその編集者は私に紹介されて初めて知った画家の絵を別の著者の装丁に使ったのである。とても悔しい思いをした。今回、妻の容子さんのご快諾を得て内容にあった絵を使わせていただけた(「夜のカーテン」1980年)。 三つ目に、長年の友、南陀楼綾繁さんが、集英社『すばる』に連載した「こぼれ落ちる記憶」が本になっていないのを見つけ、森さんが出会った人に関する思い出を本にしましょうよ、と言ってくれたことである。本になることに協力してくれた集英社の横山さん、瀧川さんにも感謝する。 いつもその座で私だけ飛び抜けて若い、という時代があった。ところが気がつけばあれあれ、自分が一番年長者になっている。還暦を過ぎると今考えたことも、昨日あった人も、お昼に食べたものもみんな忘れてしまう。それでいいのかもしれない。ただ今書き留めておかないとどこかへ行ってしまう、という大事な記憶をそっとすくって文字にしてみた。とても私一人のものにしてはもったいないという気持ちがあった。 例えば、古書店、本郷ペリカン書房の品川力さんが、白いシャツにテンガロンハットをかぶって、私たちの工房に現れ、暑い暑いと照れたように扇子を出してバタバタ仰ぐ姿などは、その声とともにはっきり覚えている。 私は20代の終わりに地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊し、爾来40年ほどの間に、どんなにたくさんの人と出会ってきたことか。雑誌というものは単行本よりも読者が参加しやすく、磁石のように人を引きつけてしまう。そのうち会ってみたいという人にはどうしても会えてしまうことになる。 私は小学校の時から郷土史クラブで、お年寄りの話を聞くのが好きだった。半世紀たってもその癖が抜けない。私は上の世代の記憶を下の世代に手渡すリングのようなものに過ぎない。 『路上のポルトレ 憶いだす人びと』森まゆみ 著 |
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