そこに古書があるから―『書誌学入門ノベル! 書医あづさの手控(クロニクル)』白戸満喜子 |
日本古書通信社の折付(村上)桂子さんから「古書店も世代が変わってきているし、『日本古書通信』に若い人向けの内容を増やしたい」というお話を伺った。学習院女子大学の司書課程で図書・図書館史という科目を担当し、余談を話す時間もなく、ひたすら覚えてほしい用語や事項の解説しかできていなかったため、副読本的な読み物があればと思っていた時期のことである。渡りに舟で折付さんと企画を練り始めたのが10年以上前だった。
主人公を大学生の双子にする、実際には存在しない「書医」という古典籍をなおす職人の世界を描く、ということで第1話がスタートした。『日本古書通信』に小説が掲載されるのはかつてない試みで、正直なところ長年定期購読していらっしゃる常連読者の方々がどのように反応なさるか怖かった。『日本古書通信』には何度も記事を投稿しているので、ここはペンネームで発表しようと思いつき、多久角星芳名義で連載した。(多久角は本名の白にかかる枕詞「たくづのの」を漢字に変換し、星芳は華道でいただいた号を使っている。) 「書医」という職業は新聞広告で見かけた樹木医に想を得た造語である。古書を修復する仕事自体はあるものの、専門職としての用語はない。櫛笥節男『宮内庁書陵部 書庫渉獵―書写と装訂』(2006年2月刊)に刺激され、『日本古書通信』2006年4月号に「古書のお医者さん」という記事を投稿したことも「書医」という命名につながっている。櫛笥氏の同書は、『書誌学入門ノベル! 書医あづさの手控(クロニクル)』の表紙にも描いていただいた。また、東京編其の二「遺(のこ)されしもの」に登場している、火災で被害を受けながら、人間でいえば蘇生された書物が写真入りで掲載されている。きらびやかな装飾や威風堂々とした装訂の書物は誰が見ても圧倒される。焼け焦げた跡が生々しく、書かれている文字を読むのに苦労する書物を魅力的と感じる人は少ないだろう。とはいえ、その書物は私たちと同じ世界に存在するのである。「書医」という語には、灰燼に帰してもおかしくなかった書物が残っている事実と、その背景にある多くの人々の祈りにも似た思いや願い、そして書物を未来に伝えるための技術があることを知ってほしいという思いも含まれている。 物語の舞台は東京の日本橋と京都であるものの、構想はほぼ神保町で練った。登場人物であり、付録では書誌学講座を担当する浅利先生のモデル・内田保廣先生(共立女子大学名誉教授)が日本橋のご出身で、ランチョンでビールを嗜みながらさまざまなアドバイスをいただいた。京都に関しては、折に触れて現地を訪問取材してみた。ただ、思いついたアイデアを基にしてすぐさま現物を確認できる、古書がふんだんにある神保町という環境に恵まれていなければ、本書は誕生しなかったと言ってよい。書物は自然発生ではできないモノである。紙も文字も画像も、すべて人間が作り出した産物である。書物は石や鉄のように堅牢ではないので、人が守り伝えようとしない限り朽ち果ててしまう。自分の目の前に古書がある。そのこと自体が歴史であり、物語であること、書物文化を堪能できる状況がどれほど幸せなのかということも本書では伝えたかった。 装訂がライトノベル風なので、マカロンや最中のように甘い雰囲気が漂っているものの、中にはキーマカレーがぎっしり詰まっている構造である。色恋沙汰も職場のもめごとも異世界への転生もないストーリーに仕上がっているのは、真の主人公が書物であるからだとお許しいただきたい。恋愛にまつわるときめき要素は皆無でも、モノとしての和書・漢籍・朝鮮本に関するときめきと魅力と味わいは可能な限り盛り込んだつもりなので、そういう視点でお読みいただければ幸甚である。 『書誌学入門ノベル! 書医あづさの手控〈クロニクル〉』 |
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