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『長澤延子全詩集』

『長澤延子全詩集』

福島泰樹

敗戦後の1949(昭和24年)6月、17歳の命を断った少女の詩文『友よ 私が死んだからとて』が1960年代後半の叛乱の時代に言葉を与えた。
 
  私は一本のわかい葦だ
  傷つくかわりに闘いを知ったのだ
  打ちのめされるかわりに打ちのめすことを知ったのだ

  雪よ 闘いの最中にこの身に吹きつけようとも
  もうすでにおそい
  私は限りない闘いの中に
  私の墓標をみた                                
           
 「墓標」と題する詩の一節だ。死の年の一月に書かれている。この詩が書かれて19年、長澤延子の詩が、学生たちに読まれる時を迎えたのである。「墓標」を書き写しながら私は、1969年1月、陥落後の東大安田講堂の壁に書き記されていた「君もまた覚えておけ/藁のようにではなく/ふるえながら死ぬのだ/一月はこんなにも寒いが/唯一の無関心で通過を企てるものを/俺が許しておくものか」、あるいは「連帯を求めて孤立を恐れず/力及ばずして倒れることを辞さないが/力を尽くさずして挫けることを拒否する」などの檄詩を思い起こしていた。
 延子の詩が秘めた時代へのつよい想いとその予見性を思う。敗戦後ほどなく地方の一少女が書いた詩が、濃密なリアリティーをもつ時代が現出したのである。

 長澤延子1932(昭和7)年2月、機業の街桐生(群馬県)に生まれる。ほどなく母を喪う。44年、桐生高等女学校入学と同時に、伯父の家にもらわれてゆく。45年、勤労動員先の工場で敗戦を聞く。46年1月(13歳)、この頃から詩を書き始める。「友よ 何故死んだのだ/紫の折鶴は私の指の間から生れた/落葉に埋れたあなたの墓に/私は二つの折鶴を捧げよう」。
 「折鶴」は14歳の詩。延子の詩は、死に向かって歩行を開始したいま一人の私(友)、つまり自身への呼びかけから始まる。だが、もう一人の私は「新聞部」や「社会部」を創り、壁新聞「ホノホ」を編集。この間、文学、歴史、経済、哲学、政治、社会、心理、精神病理学の書を乱読。15歳、高村瑛子との文通が始まる。16歳、自殺した一高生・原口統三の手記『二十歳のエチュード』に出会い「原口病」に陥るほどの影響を受ける。だが心の闘いを経て、「原口は純潔を求めて死に転身しました。私は生への純潔を求めて」「唯物論に転身します」と書くに至る。

 1948(昭和23)年5月、延子16歳3ケ月。原口との戦傷の3月、4月を経て、詩作に火が付いた。死没までの13ケ月、多数の長編詩をふくむ107篇もの詩作品を書き記す。女性詩研究家クリハラ冉は、それを「奇跡の十三ケ月」と名付けた。なかば絶望的にコミュニストへの転身を、生きるよすがとしてである。「友よ/私が死んだからとて墓参りなんかに来ないでくれ」。10連44行からなる「別離」の書出しである。
 「名も知らない高山花に包まれ」「たゞ冬になったときだけ眼をさまそう」そして「ちぎれそうに吹きすさぶ/風の平手打に誘われて/めざめた魂が高原を走りまわるのだ」。この鋼【はがね】のように硬く、しなやかな語感のうちに、詩人長澤延子の生への決意がこめられている。「私の墓を/幾度び〱 過【ヨ】ぎる春秋の中で/人々の歩みを/やがては/忘られた勝鬨さえ聞くことが出来るだろう」。彼女は、参加しようとしているのだ。戦後の荒地を切り開き、歩んでゆくだろう人々の未来を、万感の思いをもって見守ろうとしているのだ。「忘られた勝鬨」を聞くことが出来たとき、私は歴史にしかと参加しえたのである。複雑に織り込んだ時間と、そこに生起する感情の襞、それをわずかな行数でやってしまう韻律の妙。

 12月、最後の望みを託して青共(日本青年共産同盟)に加盟、晴れやかにオルグ活動を続ける。養家の父母の逆鱗にふれ、青共メンバーとの絶縁を誓わせられる。3月15日、桐生高等女学校を卒業。卒業の前後から、それまでの詩稿を大学ノート(ノート「A」「B」)に整理。26日夜、服毒後最後の詩稿、200行にも及ぶ長編詩「寄港日誌」を画帳に書き続け、地上への別れとする。…
が、自殺に失敗。日を経ずして、再び詩を書き始める。
 「母よ/静かなくろい旗で遺骸を包み/涯ない海原の波うちぎわから流してくれまいか」。初めて生母への切ない思いを明かす。そして、「何から何までを吐き出してしまいたい衝動にかられ書くつもりではなかったこの手記を」書き始める。

  さようなら
  死人の言葉に耳傾けるいとまも持たぬ程に、
  うるわしく一人一人の生存のためにたたかって下さい。

  私は破船した
  最後の通牒を眠りに沈んだマストにかかげる。
  さようなら
  ひとたび去ってはもう二度ともどらないもの。
  美しい生存の名において。

 延子実父からの依頼を受けた友人、新井淳一らの手によって私家『「海」長澤延子遺稿集』が刊行されたのは、1965(昭和40)年10月。詩人、評論家、新聞社などへの贈呈が功を奏し、詩集は人の知るところとなった。翌春、芳賀書店の編集者矢牧一宏が出版を申し出てきた。しかし、手記と詩からなるアンソロジーは、芳賀書店から刊行されることはなかった。この経緯は、原口統三『二十歳のエチュード』に、似ている。山田出版社の編集者伊達得夫は、自らが編集しヒットを飛ばした『二十歳のエチュード』一巻を引っ提げて書肆ユリイカを創設。矢牧は、売れると踏んだのだろう。「天声出版」を起こし、長澤延子『友よ 私が死んだからとて』を刊行。改版を重ね累計10万部のベストセラーを送ることとなるのだ。

 私が、長澤延子に出会うのは、「江古田文学」68号(編集長・中村文照)特集「夭折の天才詩人 長澤延子」に歌稿の依頼を受けた2008(平成20)年5月のことであった。その詩「折鶴」「別離」「乳房」「わだち」「星屑」などの詩篇に感銘した私は、毎月10日の吉祥寺「曼荼羅」での月例「短歌絶叫コンサート」を基点に、延子詩朗読行脚を開始。
 翌年、桐生市水道山記念館で、長澤延子没後60年、その友高村瑛子没後5年祭が、新井淳一の尽力で開催された。一高生原口統三の僚友で『友よ 私が死んだからとて』出版の仕掛人いいだももの挨拶がこころに沁みた。この日を境に、『長澤延子全詩集』刊行が私の夢となった。何人かの出版人にも話をもちかけてみた。テキスタイルプランナー新井淳一氏のアトリエにも何度かお邪魔した。
 2015年4月、月例「短歌絶叫コンサート」の会場 、吉祥寺「曼荼羅」に吉報がもたらされた。皓星社藤巻修一氏が、『長澤延子全詩集』刊行を申し出てくれたのだ。爾来編纂に要すること6年の歳月を経て、遺稿詩集『海』(栞をふくむ)全編の他、大学のノート3冊に書かれた詩稿129篇、大学ノート2冊にびっしり書かれた手記、長編詩「寄港日誌」、遺書、死後発見の小品などあますところなく網羅。クリハラ冉の解題、福島泰樹解説のもと、850頁の大著が、晴山生菜社主の手で開板をみる。装訂・造本は間村俊一。
 おりしも来春、詩人長澤延子生誕90年を迎える。

zenshisyu
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