『読む・打つ・書く —— 読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』三中信宏 |
私は三十年あまりにわたって、農林水産省の研究機関で職業研究者として勤務してきた。世間的に見ればいわゆる “理系の研究者” なので、実験・観察を繰り返し、しかるべきデータを取って、その結果を学会発表や原著論文というアウトプットとして世に出すというやや固定されたイメージで見られることには慣れている。確かに、そのようなステレオタイプな “理系研究ライフ” は大筋では外れていないだろう。しかし、それだけが理系研究者の仕事かと言われれば即座に「否」と答える。
私のいる農研機構という複合的な研究機関には何千人かの研究員が在籍しているので、その研究人生には多かれ少なかれ多様性(ばらつき)があっても不思議ではない。私は31歳のとき研究員として採用されたのだが、当時はいったい何をしているのかよくわからない研究員もあまたいたし、何を目指しているのか判然としない研究室も今よりももっとたくさんあった記憶がある。そして、周囲を見回しても、専門的な論文を書く以外に、一般向けの本を単著で書く多様な研究者がもっと多かったような気がする。そのような手本になるモデルケースがあれば、あとに続く人は絶えないだろう。しかし、残念ながら、その後は “淘汰” が進んでしまって、一見ムダなばらつきは一掃されてしまった。 昨今の農研機構を見ると、社会に向けた対外的な宣伝は確かに手間ひまかけて機動的に行っていることはよくわかる。しかし、その一般向けPRからは個々の研究者の “顔” は浮かび上がってこない。あくまでも「オール農研機構」としての研究成果を外に向けて強調する一方で、それを遂行してきた研究員たちそれぞれの “実体” はむしろ見えなくなってしまっている。そのひとつの証拠が、私の周囲で本を書いたことがある研究員がほとんどいなくなっているという事実だ。私はこれまで単著で本を書く機会を多く得てきたが、これは私のいる職場では例外中の例外だ。ほとんどの研究員は論文は書いても本は書いていない。研究組織としていくら成果が広報されたからとしても、研究員たちが対外的に “カオナシ” のまま知られていない現状では、原著論文は書いても単著の本を書いてみようという動機付けがなかなか湧いてこないのが、昨今の日本の研究環境の実情だ。 このたび上梓した『読む・打つ・書く —— 読書・書評・執筆をめぐる理系研究者の日々』は、「理系の本を書く研究者が昨今とみに減ってきている」という危機意識を東京大学出版会の編集者から聞いたことが執筆の動機だった。本書では研究者がその人生の中で出会う本との付き合い方を「読書・書評・執筆」の三つの場面に分けて、私自身の研究者としての執筆経験をちりばめながら論じた一冊だ。 前半第一部「読む」は読書論である。専門の原著論文を読めば “断片化” された最新の知識を得ることはできる。しかし、一冊の本を読めば断片的な知識の “体系化” を図ることが期待できるだろう。知識の “断片化” と “体系化” という両極を対比しながら、本を読むことの意義を再考する。そこでは、ある専門知の体系を身につけるための読書法や広く出回っている電子本はどこまで信用していいのかという論点も含まれる。研究者にかぎらず、読者ひとりひとりの “探書アンテナ” をしっかり鍛えていくことは読書人としてのリテラシー養成にもつながるだろう。 続く第二部「打つ」は書評論である。日本の新聞や雑誌の書評欄では長文の書評が出ることはほとんどない。一方、インターネット上の書評サイトではもっと長文の書評が公開される。私は2019〜2020年の2年間にわたり読売新聞読書委員として書評欄に寄稿してきた。そのときの経験も踏まえて、さまざまな書評の様式について、私の書評を例として挙げながら説明する。さらに、著者あるいは読者として実名書評や匿名書評をどのように読み解けばいいのかを論じた。書評の書き方はこれまで論じられてきたが、書評の読み方についてのまとまった議論は本書が初めてだろう。 最後の第三部「書く」は執筆論である。一冊の本を書き上げるのはどの著者にとっても大仕事だ。しかしも、単著の本を書くことに対してためらったりたじろいだりする理系研究者がほとんどだろう。彼らは日々忙しすぎて本を書く時間などないと思いこんでいるからだ。私は自分を “実験台” にして、毎日のちょっとした努力の積み重ねを怠らなければ、誰でも単著で本を書くすべがあることを示した。単著の執筆をまだためらっている書き手たちの背中を押すことが大きな目的である。本書を読み終えたら、もう本を書くしかない。 学術書であれ一般書であれ、本との付き合い方が根本的なところで揺らいでいるのが今もっとも大きな問題ではないだろうか。本書は「本」をめぐる三つの側面 —— 読書・書評・執筆 —— の現状と問題点を示し、その解決のための実践的手法を読者に提示した。また、私が見渡してきた “理系” 分野での「本ライフ」を前提にして、自然科学・科学史・科学哲学分野の本を実例として多く取り上げている。しかし、本書の考察それ自体は分野の別には関わりなく、 “理系” / “文系” の双方にまたがって参考になる部分が多いだろう。
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