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『詩とは何か』

『詩とは何か』

吉増剛造

 ありがとうございました。お声をかけていたゞきましたタイミングが、…と思いまして念のために辞書をひいてみますと、“timing=時宜を得ること”と、こうして、前著の『Voix』(思潮社、二〇二一年十月刊)について、書きましたときと同じような心躍りを覚えつつ、“うん、生き物のように、そのときそのときでこれも違うのだな、この心躍りは、…”と独(ひと)り言をいゝながら、書きはじめております。
 そのタイミングといいますのは、仲介をして下さいました、旧友で書肆吉成の店主の、吉成秀夫さんから、“書いて下さい”の信号が参りました日が、そう、何往復をしましたのか、原稿送り、icレコーダー送り、校正送りが、とうとう、千秋楽のような最後の日をむかえていました、最終校正をして、編集ご担当の講談社の山崎比呂志さんに、最後のお礼のメモを記している日、そのときだったのです。(二〇二一年十月十七日、日曜日、午後三時頃でした。)
 いまから、綴りましたばかりの“お礼のメモ”を、比喩がすぐにはおもいつかないのですが、たとえば“掘った穴に隠したホネを、もう、すぐに掘りだしてみる小犬のように、…”なのでしょうか、この喩を考えているときが、仄(ほの)明るく面白(おもしろ)い。おそらく、初めてしている“仕草(しぐさ)”という“ときめき”なのですね。少し、怖いような気がするけれども。

山崎お師匠さまへ。
この本校(ホンゲラ)の読み返しさえも、まったく新たなるものを読み直すがごとしでした。黒フセンのうち、一つは、小見出しのお願い。あとの二つは少々の加筆のところです。
献呈リストも、ほゞ出来て、お戻ししようとしていましたら“古本屋案内”さまよりのgoサインが来ましたので一日お戻しを延して火曜日(10/19朝)にいたしました、念校?第三校も、ほんのひと目と祈りおります。 17 OCT 2021 剛造拝

 こうした“即時性”、タイミング=timingというのよりも、もっと幽かな、白い雲か白い煙を、そのときどきの思考のなかに、みつけだしつづけることが、この『詩とは何か』という書物の芯(しん)、…というのよりも、舐(な)めているうちに気がつくと溶けていた、飴玉(あめだま)にも似ている。とても時間がかかりました。時間ばかりではなくって、首の傾(かし)げかたを変える、…そんなふうに、“思考の仕草(しぐさ)”を、決定的に変えなくてはならなかったのです。
 こんなことをしてみることは、予想も予定もしてはいなかったことなのだけれども、ご返却寸前の「最終校正」から、そんな個処を、ほとんどおそらく、本稿に加筆をしてみるようにして、こんな個処の、引用を試みてみたい。

“…場面、場面における、むしろ小さな、細かな「しぐさの刹那」にこそ「詩」があるらしいということが、こうしてお話しすることによって、わたくしの心の経験として、少し明らかというか、明るみを帯びてきたというのでしょうか、表現ができてきたというのでしょうか。そういうところに差しかかってきましたように思います。それが「板一枚」であるのかも、「緑の導火線」であるのかも、「一刹那の遅れのようなもの」あるいは、奇妙な言い方をすることになるのですが、「一瞬の啞性(おしせい)のようなもの」(編集部注=カッコ内の文字列に“~”波線のアンダーライン)であるのかも知れないのです。
 ですから、「詩の心」とか詩人の「書く」という言い方をするよりも、背筋がぞおっとするくらいの驚異、そうした「驚き」が一挙に押し寄せてくるような炎の場面に立ち会わなければならない、…と言う心の奥底の声、そうした「驚き」の脅威の巨大なかたまり、宇宙大のかたまりが押し寄せてくるとき、それが「詩とは何か」という問いが現れてくるときだろうと思います。”(『詩とは何か』120頁ー121頁)

 まさか、『自著を語る』で、こうした引用をしようとは、思ってもみなかったことだし、さらにここにいまから綴ってみるであろうことを、原稿にも加筆しそうになる、そんな幽かな危うさのようなものをさえもを覚えつつなのだけれども、引用の波線を付けました個処、…ここが、加筆、校正のときの、…そう二十回以上にも及んだであろうか、そのときのさらなる、幽かな次元の一歩のすすめ方でした。この書物の巻頭の第一の詩篇としてあげたのが、ウェールズ生れの酔っ払いの稀代の詩人Dylan Thomasの詩篇「緑の導火線を通って花を咲かせる力」とその濁声(だみごえ)であった。この声の深さ、濁(にご)りの奥には彼方にはと、思いをめぐらせていて、十数回目の手入れの際に、吃(ども)りとも口籠(くちごも)るともいわずに、ほんの僅かに文法(「読み」の)を外して、普通だと「啞性(あせい)」というだろうこれの読み方を、「一瞬の啞性(おしせい)のようなもの」としてみたときに、概念が一新されるというのよりも、刹那に世界の律動が変化したとも感じられたのです。
 “世界の律動が、…”は、勿論、大仰(おおぎょう)なのだけれども、たとえば、ショパン、たとえばベートーベンの作曲の時を想像してみてもよいのだろう。響きの波立ちが明らかに違う。おそらく、ここで“外の、…”“別の…”声が聞こえてきていて、ほゞ五年あるいは十年にわたった本書の“朧な(おぼ)ろな芯(しん)”のひとつの入口となったのでした。
 いま綴っていますこのことは、もしかしたら、秀れた、卓越した編集者山崎氏への注記と受けとられるのかも知れないと、思いつつなのですが、この“外の、…”“別の、…”が、同書のもうひとつの芯(しん)のフランツ・カフカについての次のような個処とも、通底をしているところだったのですと、いま、そういまなら、そう発語が出来るところにまで本書『詩とは何か』は、届いたのだということも出来るのです。

“「書くということに私は戦慄しているのだ。しかし一体どのような書くことなのか」と。これに答えてカフカが、「君にはわかんないのだ」と恋人のフェリーツェに言ってるんですね。「ある種の頭の中にある、ある種の文字とはどういったものなのか。それは地面の上を歩くかわりに木々の天辺にいる猿のように、絶えずせわしなく追い立ててくるんだ。途方に暮れてもほかにどうしようもない、一体どうすればいいのだろう」と。まるで考えもできないような、表現もできないような何かがそこで騒いでいる、それがブランショの言う「外」なんですよ。
 その「外」からの「力」、言うなれば異世界の騒ぎをこういう瞬間に、ぱっとつかまえる力がカフカにはあるのです。これ、多分、自分の頭の中の状態を言ってるんだるよ。”(『詩とは何か』119頁)

 ほとんど無意識にか、夢中に綴っていたらしい、…あるいはicレコーダーに発語していたときにだったのでしょうか、“異世界の騒ぎを瞬間に”のところで、“響きの波立ちが明らかに変幻したらしい”と、感知していたのでしょう。…とすると“外”といわずに、あるいは“瞬間”とも言わずに、さらに“異世界”ともいわずに、わたくしめのいい方ですが“微物の心のきしみのようなもののあらわれ立ってくるとき”といってみたい気がいまはしております。
 以上のようなことは、あるいはさらにこの書物にさらに書き込むべきことのひとつなのであって編集の山崎師匠(…と呼ぶのですが、…)に、叱られてしまう種類のことなのかも知れません。

 さて、これでようやっと、“枕(まくら)”を書き了えまして、本書、…怖るべき標題です、『詩とは何か』の成立の事情のご説明に移りたいと思います。たとえば荒川洋治さん、たとえば高橋睦郎さん、秀れた第一級の詩人さんたちがこの書の執筆者でありましたならば、おそらく、想像もつかない、別宇宙が展開されたことでしょう。「詩」ということの初心についても、根源につきましても。
 その難題とも、ほとんど不可能に近いこの書物の執筆の任にあたりましたのは、これはほとんど共著者と申しましても過言ではありません、林浩平先生が、この書の編集者というよりも生みの親であります山崎比呂志氏とともに『ブリティッシュ・ロック』を出版されていて、林先生との永年の親友(とも)でありますわたくしに、丁度、東京国立近代美術館において、2016年に「全身詩人、吉増剛造」と題します展覧会が組織され、この展覧会の火付け役も林浩平先生でした、それでは『詩的自伝』をという題の新書、…「新書」の上梓はわたくしには初体験のことでしたが、ほとんどがお二方によります聞き書きによります、この書『わが詩的自伝』が成立をいたしました。

 本書『詩とは何か』は、その後篇なのです。“後篇”といいながらも、なんという、途方もない、胸騒ぎのする標題でしょうか。しかも、出版されます冊数も、わたくしの「詩集」や「詩論集」とは比較にならない数なのです。この重圧は、これをいまお読みのみなさまにも十分に伝わりますことでしょう、難事でした。そしてもしも、この書の執筆者が、たとえば大岡信氏、たとえば谷川俊太郎氏であったならば、…と自らの至らなさ、視野の狭さ、あるいは伝統詩形への敬意と愛着の不足等々が、途切れることなく脳裡に去来していましたことを、はっきりと申し上げておかなければなりません。しかしながら、あるいはそれにもかかわらず、やみがたく、衝迫して来るといったらよいのでしょうか、稲妻か雷鳴のごとくに、幼いときから、命の“朧(おぼ)ろな芯(しん)”のようなところに震えつつ存在しているらしい「詩」への執着、…ほとんど恋心にも似たものを、ここで窮(きわ)めつくすようにという声をも聞きつづけていました。前回の「自著を語る」の『Voix(ヴォア)』(思潮社刊、二〇二一年十月二十五日)と、雁行して書きすすめられて、三年、五年と特に石巻、鮎川浜通いが必ず一月に一度の足取りと、みえない心の覚悟のようなものが、この二著の命の“朧(おぼ)ろな芯(しん)”を形成をしていまして、その星雲状の白い雲の棚引きが、それを、心に湧いて来たときに、時々刻々、写し取るようにしていたこともまた、この二冊の書物の水脈でした。

 それにしましても、山崎比呂志、林浩平両氏のお力なくしては、この『詩とは何か』の成立は、ほとんど不可能に近いことでした。本書の肝(きも)とも勘所(かんどころ)ともいえます「Q&A」(質問集)の項から読んで下さることが、本書への参入の戸口となるかも知れません。稀代のピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフとの出合いを可能にしていたゞき、シューベルト、ショパン、モーツアルト、ベートーベンへのわたくしなりの理解の糸口をつくっていたゞきましたのが山崎比呂志氏でした。さらに、ジミ・ヘンへの接近への本書のなかでの大切な道をひらいて下さいましたのも、林、山崎の両氏でした。しかしながら、これらの支えと巨きな力を与えていたゞきながらも、これを「共著」とはいえないところに、本書『詩とは何か』の、幾度(いくたび)かこのいい方をいたしましたが、本書の“朧(おぼ)ろな芯(しん)”があるのだろうと思います。本書は、語(かた)りでもあり、獨(ひと)り言(ごと)でもあり、ときとしてセッション=sessionでもあり、…ときには、細々とした小声を把えようとするエクリチュール(書記)でもあるのですが、とうとう、この“時宜を得た”=“timing”で書かせていたゞきました本稿も紙幅が尽きようとしていて、お仕舞いの土間の隅(スミ)のようなところで、もういちど耳を澄ましてみます。『詩とは何か』これはおそらく“問(とい)”でも、“答(こたえ)”でもなく、周波数のまったく違った宇宙からの白雲のたなびきの声か、あるいは踏切りの棒が上って行きますときの空の、…「空」はフランス語でCielなのですが、その艶(えん)なる声のことでも、あったのかも知れません。ありがとうございました。 19 OCT 2021(火)

『詩とは何か』吉増 剛造著
講談社現代新書 定価:1210円(税込)好評発売中!
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-66-1.html

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