鶴見俊輔『日本の地下水 ちいさなメディアから』(編集グループSURE刊)のこと黒川 創 |
哲学者の鶴見俊輔(一九二二〜二〇一五)は、生前、
「わたしにとって、自分の単著を書いたりすることは、副次的な仕事にすぎない」 と語ることがあった。 では、鶴見の「中心となる仕事」とは何なのか? 他者との「共同の仕事」が、それにあたるということだった。 たしかに、鶴見は、『共同研究 転向』(思想の科学研究会編)をはじめとして、実に多くの共同研究に、みずから先頭に立って携わった。加えて、さらに大きな「共同の仕事」は、雑誌「思想の科学」の刊行だろう。敗戦の翌年、一九四六年に二三歳で創刊して以来、五〇年間、自身が七三歳になるまで、編集の中心を担って刊行を続けた。 また、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など反戦の社会行動も、世代や国境をまたぐ「共同の仕事」だった。これらの行動の合間に、自身の単著を書いていた。どれだけ多忙になっても、自分の著作のために「共同の仕事」を中断しようとはしなかった。それほど強く「共同の仕事」に自負と希望を抱いていたということだろう。 雑誌「思想の科学」で一九六〇年から八一年という長期にわたり、「日本の地下水」という連載批評欄が続けられた(その前の一九五六年からの三年半は、「思想の科学」の刊行中断期にあたり、この欄は、思想の科学研究会の名で、雑誌「中央公論」に掲載されていた)。一九五〇年代に入るころから、日本の各地で、サークル活動が盛んになった。職場、学校、地域などで、自主的な集まりを定期的に開き、趣味、職能、生活・医療など、共有する関心についての交流をはかる。敗戦からの「復興」が進んで、各自の暮らしに、その程度には余裕が生じたということでもあるだろう。これは、戦前の家父長中心の日本にはなく、戦後の男女の暮らしに新しく生じた動向である。そこでは、自分たちの小雑誌の発行も盛んだった。「日本の地下水」は、これらの小雑誌について、紹介と批評を行なう欄だった。 この欄は、時期ごとに、雑誌の母体である思想の科学研究会から選抜される三人の筆者によって執筆された。思想史家・武田清子、詩人・関根弘、メディア研究者・田村紀雄、社会学者・天野正子……と、いろんな筆者が入れ替わって、執筆を担当した。一方、鶴見俊輔だけは、「日本の地下水」連載のほぼ全期間、執筆を続けている。彼がどれほどこの企画に力を入れていたかの表れでもあるだろう。 ただし、この種の「共同の仕事」は、後年、忘却にさらされがちである。たとえば、「日本の地下水」は、毎回、そのときどきの共同執筆者三人の名前が連記されるかたちで発表されていた。どの文章も、直接に執筆を受け持つ者の一人称で書かれているのだが、その筆者当人の名前は明記されていない。 私は、これらの筆者たちとともに「思想の科学」の編集に携わっていた時期がある。当時は、それぞれの書きぶりで、誰が筆者であるかは、自明のことだった。だが、歳月を隔てると、第三者の目には判定がつかなくなる。こうした状態での放置が続くと、筆者不明の扱いで、そのまま埋没しかねない。 だから、このたび刊行する鶴見俊輔『日本の地下水 ちいさなメディアから』では、「思想の科学」に記事が掲載された時期を通して、鶴見が執筆した全部で六四編の記事を特定し、すべてを収めることにした。 「共同の仕事」を、あえてこういう「一個人」の著作に編みなおすことには、一抹の躊躇を覚えないわけではない。だが、いま、私のような「思想の科学」の編集に加わった最後の世代の者が、これを果たしておく責もあるだろうと考えた。鶴見俊輔生誕百年、編集グループSURE創業二〇年という機会をとらえて、ご家族の承諾を得て、刊行に至った次第である。こうやって一冊として通読できる状態にすることで、鶴見による問題のとらえかたの多元性、踏み込みの鋭さ、視野の広さが、読者の目にも届くようにできたかと思う。 編集グループSUREでこれまで刊行した鶴見俊輔の多くの著作、また、関係者による証言集『鶴見俊輔さんの仕事』①〜⑤などは、それぞれに、彼の「共同の仕事」に目を向けたものである。創業から一三年間をこの人と歩み、その後の七年間は亡き面影を道しるべとしてきた。これに感謝しつつ、未来の本づくりについても考えていきたい。 ![]() 定価2,860円(本体2,600円+税) 四六判・並製、352ページ 発行・発売 編集グループSURE 好評発売中! 【この書籍は書店での販売をしておりません。】 |
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